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自分自身のなかに持っている境 町田康

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自分自身のなかに持っている境 町田康

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(町田康さん撮影)  【本の話をしよう】

 私は読み狂人。朝から晩まで読んで読んで読みまくった挙げ句、読みに狂いて黄泉の兇刃に倒れたる者。その読み狂人の、主に怠惰によって半ば腐敗した、まるでゾンビのような脳に浮かんでいるのは、境、という言葉。

 越す意識がない

 境というのはどういうところかというと、そこがひとつの限りで、そこを越えると、時間なのか、言葉なのか、とにかくなにかが変わって別世界のようになってしまう、線というか、ゾーンというか、そういうものである。

 いま、普通に暮らしていて、もっともわかりやすい境といえば、行政的な境で、あの人は世田谷区に住んでる、とか、渋谷区に家がある、なんてよく言う。それは、地図のうえに引かれた明確な線で、それを一歩またぎ越せば別の区になり、町になる、というはっきりした境である。しかし、その分、実感がないというか、カーナビゲーションシステムを作動させるなどしていない限り、あ、俺はいま渋谷区に入ったな、あ、でもまた、目黒区に入った、などは思わない。或いは、鉄道の駅を中心に考えると、その境はずっと曖昧になるが、境を越えるとき、より感覚的にとらえられるのかも知れない。

 けれどもそれらはいずれにしても地理的なというか、まあ、表そうと思えば地図上に表すことのできる、嫌みな感じで言えば、しょせんGoogle的な考え方で把握できる、境である。

 しかし、私たちは誰もがもっとわけのわからない、けれども確実にあって、くっきりした境を自分自身のなかに持っている。生まれる前と生まれた後、の境と、死ぬ前と死んだ後、の境である。

 この境は間違いなくあり、誰もがかつて越し、これから越す境である。しかし、難儀なことに、いずれの境もそれを越すことによって意識がないというか、意識の意識が、現状の意識の意識とは違う意識で多分、意識されると思われるので、いま現在の意識で、「あ、いま練馬区に入ったな」とか、「おおっ、なんか祖師ヶ谷大蔵っぽくなってきたな」みたいに思うことはできないのである。

 意図的に忘れている?

 けれどもしかし、と読み狂人が思うのは、古井由吉の『鐘の渡り』を読んだからである。

 けれどもしかし、私たちはその境をそのときにしか越えていないのだろうか。実は、現在の或いは再生された記憶のなかで、その境と、その境を何度も何度も越えていて、身の安全のため、というのは、気が振れないようにするために、その境を越えたことを、意図的に忘れてしまっているのではないだろうか。と、読み狂人は、『鐘の渡り』を読んで思った。

 小説のなかで、語り手の意識はこの境を自由に越えたり戻ったりするが、境はこの世のいたるところにあって、夜が明けきる前と夜が明けた後の境であり、桜の咲く前と後であり、鐘の鳴る前と後であり、また、角を曲がる前と後には境があるが、角そのものが境でもあり、角は辻であり、運河であり、また、建物の内と外、廊下の手前と突き当たりにも境があって、その境は生死の境と同じくらい危ういのである。なぜならそれが境だからで、境を越すことによって、いろんな、匂い、味、気温、日の光、記憶、男女のこと、天候、体調その他一切が、入れ替わるみたいに変換されてしまうからである。アクロバットである。なんていうと怒られるか。しかし、読み狂人のようないまの世代は発句なんてもうぜんぜんわからない。わかっているというオタクもそういう意味でわかっているのではないのではないか、とも思う。

 それにつけても例えば、「しかしわれわれも最後には、昔とどちらが寒いのだろう、と暖かい部屋の中でぽつりともらした。その人ももうとうに亡くなっている」とか、読み狂人が1000行かかっても書けないようなことがたった2行で書いてあって、しかも全行がそんな文章なのだから悶絶するね。極致というか極地だね。おほほ。嫌になっちゃうわね。読み狂人、嫌になっちゃうわ。(元パンクロッカーの作家 町田康、写真も/SANKEI EXPRESS

 ■まちだ・こう 1962年、大阪府生まれ。81年、町田町蔵名義でパンクバンド「INU」のボーカリストとしてデビュー。96年には町田康として処女小説『くっすん大黒』(文芸春秋)で文壇デビュー。2000年に『きれぎれ』(文芸春秋)で第123回芥川賞受賞。近刊に『人間小唄』(講談社)。

 ■「鐘の渡り」(古井由吉著) 著者は1937年生まれ。「女に死なれたばかりの人と山に入って、ひきこまれはしないかしら」。恋人を亡くした友人と旅に出た男が、山中で見たものとは-。三十路の男2人の旅路を描く表題作をはじめ8編を収録。新潮社、1680円。

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