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考えないでいることを考える 町田康
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私は読み狂人。朝から晩まで読んで読んで読みまくった挙げ句、読みに狂いて黄泉の兇刃に倒れたる者。そんな読み狂人がつくづく思うのは、社会の仕組みのなかで、人間という者はほとんどなにも考えないで生きていけるなあ、ということ。
というのは、この読み狂人がそうで、はっきり言って読み狂人、毎日、ほとんどなにも考えないで暮らしている。といってまったくなにも考えない、というのは一種の悟りの境地で、そんな境地には当然、いたっておらず、頭のなかにはなんらかの意識というか、思念というか、そういうものはある。
どういうものかというと、「うわっ。冷蔵庫開けたらシシャモ入ってるやんかいさ。夕方なったら焼いて食たろかしらん」とか、「湯豆腐のタレにいれんのん、柚胡椒ともみじおろしとどっちがええかな。ううむ。わからん。いっそ豆板醤いれたろか」とか、「颱風くる言うよってに雨戸閉めんならんにゃけど、2階の雨戸、建て付け悪いからめんどくさい」とか、「昨日、泥酔して吉田はんの顔舐めてもた。吉田はん、おこってんちゃうかな。わちゃあ」みたいなことで、まア、それを、考え、とは呼ぶことはできない。
そしてそんなことではあかぬなあ、と、思ったのは、貴志祐介の随筆集、『極悪鳥になる夢を見る』を読んでしまったからである。
貴志祐介は絶大な人気を誇る恐怖小説の大家である。ここではその小説家の日々の折々のことが描かれているのだが、もちろん、恐怖小説家だからといって、その日常が恐怖・叫喚に溢れて、自宅に拷問ルームがあったり、冷蔵庫に生首や内臓が入っていたりするわけではなく、その日常は一般の人間と大して変わらないように見える。
ただ一点、普通とは違っているなあ、と思うのは、右に申し上げた、社会の仕組みのなかで漫然と生きている人間がほとんどなにも考えないで生きているのに比して、作者はそういった人たちが考えないでいることをひたすら考えて日々を生き、それを仕事に生かしているのだなあ、ということで、たとえばいま読み狂人は読み狂人が日常のくだらないことを断片的に思うのみで、それを考えと呼ぶことはできないと言った。
しかしそれは読み狂人がアホだからそうなるだけで、じゃあ、日常の些事でない、大所高所天下国家思想哲学宗教歴史みたいなことを考えればよいのかというと、まあもちろんそれは首尾一貫した、考え、であるには違いないだろうけれども、その考えはあくまでも、社会の仕組みのなか、に収まる考えで、本来の、考え、に含まれてあるべきものが痺れたように固まって動かないでいるような気がする。っていうかねぇ、読み狂人は実は本当は社会の仕組みというものは、そうしたことを考えないようにするためにあるのではないか、と思っているのじゃが。しかし恐怖をもたらすためにはそれに挑まなければならず、それを敢然とやっている作者の、考え、はときに突飛&突破。小説の恐怖が笑いに突入してむっさおもろいね、と読み狂人、思たわ。
ところでこれまで隠していて申し訳なかったが、読み狂人、実は書き狂人でもありますねん。私は書き狂人。朝から晩まで書いて書いて書きまくり、書きに狂いて牡蠣の養殖を始めたる者。みたいな。
そんなことで私は書くにあたって資料的に読む本もあるんやけど、そういう意味で今月(10月)、レイモンド・チャンドラーばっかし、読んでたんですが、おもろいけどおもろないね。こういうおもしろさというものは、おもしろいから仕事を忘れてむっさ読んでしまうのだけれども、こういうものに淫するのはなにかこう、悪徳、って感じがする。読み狂人は書き狂人でもある。そして読み書きソロバンというのであれば、ソロバン狂人でもあるべきなのだけども、そこがからきし駄目である。こういうおもしろさの背景と読者の考えはグラフ化した、マンダラの如きがあればよいのだが、と読み狂人は思うが、仮にそうしたものがあったとしても解読はできないかもな、とも、思う。とぞ、思う。
日本を代表するホラー作家の一人、貴志祐介の第1エッセー集。デビュー以来の全エッセーから選りすぐった文章を収録する。作家の意外な素顔が明らかになる。青土社、1890円。