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ただ人が歩いている その姿の美しさを感じる 町田康

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ただ人が歩いている その姿の美しさを感じる 町田康

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(町田康さん撮影)  【本の話をしよう】

 私は読み狂人。朝から晩まで読んで読んで読みまくった挙げ句、読みに狂いて黄泉の狂人に倒れたる者。そんな読み狂人が思うのは…、と言って、あ、また、思っていると思った。と言って、また思っていると思ったと、と思って、また、思ってると…(以下無限に続く)。なんつって、ははは、なにを言ってるのかわからんね。

 手にてなすこと

 なにが言いたいかというと、考えてみれば読み狂人が、こうして文章を書く場合、文章の最後に、と思った。という言葉がつくなあ、と思ったのである(ほらね)。

 つまり、読み狂人は思ってばかりいるのである。そしてまた、読み狂人は、これは小説を書く場合に多いのだが、と、言った。という言葉も頻繁に使う。どんな感じか、ちょっとやってみると、吉岡は言った。「猿には猿の考えがあるのだ」と。みたいな感じである。

 もちろん、この他にも、食った、とか、飲んだ、とか、眠った、とか、言うこともあるが、圧倒的に多いのは、思った、と、言った。である。

 このことはなにを意味するのか。それは、読み狂人が、思うばかりで実行力のない、口先だけのバカ男、であることを意味しており、実に嫌だなあ、と思うのだが、しかし、中原中也の、「朝の歌」という詩のなかに、手にてなす なにごともなし。という句があることからも知れる、つまり、詩を書いたり小説を書く人間は、そもそもそういう人間なんだよ。だから、そいつらが書く小説やなんかにでてくる奴が、思ったり、言ったり、するだけなのは仕方ないんだよ。所詮は口舌の徒だからね。

 なんて開き直って生きていけたらよいのだけども、そうもいかないのは、佐伯一麦の小説、『渡良瀬』を読んでしまったからで、この小説の中心に、手にてなすこと、がおもっきりあったからである。

 心地よい衝撃

 その、手にてなすこと、すなわち、この世で人間が実際に生きていくために必要不可欠なものを作り出すこと、が克明に、丹念に、澄んだ文章で書かれるのを読んで、読み狂人は、そこらへんに落ちていた、どうでもいいような木の棒で脳天をどつかれたような衝撃を受けた。見ると、あたりに脳ミソが散乱していた。

 しかし、それは心地よい衝撃であった。いままで黙っていて申し訳ないが、実は読み狂人は、はっきり言ってこれまで、手にてなすこと、をしたことがほとんどない。若い頃は場末で歌うたいをして、中年以降は小説家になってしまったからである。

 『渡良瀬』の主人公、拓は28歳で、時代は1988年、ということは同年に、28歳だった読み狂人と同世代であるが、思うことと言うことに、というよりは、歌舞音曲に熱中していた読み狂人は、手にてなすこと、をこのようにとらえたことはなかった。

 時とともに流れる意識

 芸人というものは米も釘も作らず、一見してアホみたいなことを言っておもしろおかしく一生を暮らす、世の中から外れた奴。という認識が一般にある。しかし、1987年頃というと、世の中は不動産や金融を中心とした景気が過熱、あの頃より人の意識が次第に変化して、ついにいまでは、普通の人間が芸人のようになり、人中でおもしろいこと、気の利いたことのひとつも言えぬ奴、一瞬で周囲に同調できぬ奴はアホ、みたいなことになって、いろんなものが極限までポップになった。

 当時、貧乏で時折は武蔵浦和や小山などの工場でアルバイトをすることもあった読み狂人は、ひがみとねたみに凝り固まり、世の中を呪っていたが、考えれば読み狂人の意識も感情も時代とともに流れてきたように思う。

 人間が生きるということは、しかし、そういうものではないのだ。この、小説を読んだいま私は、ただ人が歩いている、その風景が違って見えるように思える。人の姿の美しさを感じる。本来は表面しかないはずのポップなむなしさの向こう側に、その人の姿の美しさが見えるように思う。はは、思う。あたりに見苦しく散らばった脳ミソを拾い、割れ目から押し込む。電流が流れる。また、読む。また、おかしくなる。痺れる。(元パンクロッカーの作家 町田康、写真も/SANKEI EXPRESS (動画))

 ■まちだ・こう 1962年、大阪府生まれ。81年、町田町蔵名義でパンクバンド「INU」のボーカリストとしてデビュー。96年には町田康として処女小説『くっすん大黒』(文芸春秋)で文壇デビュー。2000年に『きれぎれ』(文芸春秋)で第123回芥川賞受賞。近刊に猫との暮らしをつづった随筆集『猫のよびごえ』(講談社)。

 ■「渡良瀬」佐伯一麦著/岩波書店、2310円) 茨城県西部の町にある配電盤製造の工業団地が舞台。元電気工の28歳の青年は、一工員として働き始める。1993年から96年にかけて連載されていた未完の作品を、20年の時を経て完結させた。

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