昨年12月19日にベルリンのクリスマス市に大型トラックが突っ込んで多数の死傷者がでたテロ事件のあと、同市に住む移民がブログに書いていた。
「移民反対の声がメディアに多く掲載されているが、それは全体の姿を的確に伝えていない。私が直接知っている周囲の人たちは、多様な人の共存に寛容である」
ぼくがこの文章を読んで思うのは、ざっくりいって、半分の人たちが移民に寛容であり、もう半分の人たちが移民に反対である、という図式がもはや描けない、ということだ。なぜなら、このブログを書いた人の周囲にいる寛容な人も、見知らぬ移民に対して態度を変える可能性が高いからだ。
かつてこの種の議論は理念と現実、総論と各論の乖離であり、例えば、多民族や多人種の共存が理念であり総論であった。この総論への支持がEUを支えてきた。が、日々の生活に外国人が入ってこられると言葉や文化の違いから消極的になる。これが各論での反対の背景である。
しかし現在見えているのは、違う論理からくる風景だ。総論において移民反対であり、各論のレベルに落としこむと移民を個人的には受け入れる。
これは草の根交流への絶望なのか。いや、希望なのだろうか。近い人を排除しないかわりに、遠くの見えない人を排除するのは、草の根交流の賜物であるにしては、あまりに寂しい結論ではないか。