39年に東海道新幹線が開業。横浜を素通りする行楽客が増え、売り上げが落ちる逆風の中、豊さんは駅構内から市中販売へ打って出た。シウマイは横浜みやげから、デパートで売られるお総菜へと進化を遂げた。
関東大震災や戦災を乗り越えた祖父と、その苦労を見て育った父に「3代目がしっかりしなくてはいけない」と繰り返し言われていた直文さん。反発心から別の企業に就職したが、「お父さんの体調が良くないから親孝行を」と、1年余りで呼び戻された。
23歳で崎陽軒に入社。豊さんの方針で、31歳まで弁当やシウマイ作りなど現場で経験を積んだ。崎陽軒がレストランを新規開店したり、工場を移転して製造を自動化したりと変革を続けた時期に変化の中心にいて、やりがいを感じた。
「大勢の従業員がどんな気持ちで働いているかを知ることができ、貴重な経験だった」
バブル崩壊後の平成3年、社長に就任。豊さんの時代は高度経済成長を背景に事業を拡大していったのに対し、直文さんは景気後退期。赤字店舗を減らす撤退も必要だった。組織を筋肉質につくり替え、引き継いだ借入金約20億円をゼロにした。