この話し合いに参加しながら、日本から理論を学びにいく留学生が少ない背景を考えた。イタリアの発想プロセスで重視する「跳躍」を日本の人がどう理解するか。これが案外、鍵ではないか、と。
イタリアで推奨する着想までのプロセスは、まず頭を空にし、分野に限らず水平的にインプットを重ねる。そしてある飽和状態のタイミングで、「跳躍」が起きる。そこに新しいアイデアが到来するのだ。
基本的に、このプロセスはどこの文化圏であろうと変わらないはずだが、アングロサクソン系の方では、飽和状態からの論理的な積み上げがあって「跳躍」があるような印象がある。つまり「跳躍の高さが低い」。比喩的にいえば、土地の隆起があって跳躍のポイントにたどり着く。
したがってアイデアにロジカルに到達できる気になりやすい。イタリアでは、そうとうに跳躍力がないとできない、と思われやすいのではないか。
特に、日本ではロジカルではないことに弱点を感じることが多かったから、「ロジカルシンキング」というブームがあった。もともとロジカルであることを前提にしている文化圏では、ありえないブームだ。
当然だが、イタリアにおいても「ロジカルシンキング」ブームなどない。しかし、一度「ロジカルシンキング」の色眼鏡を装着した目に、イタリア文化土壌にある着想地点は遥か彼方に見えてしまうのかもしれない。