確かにルーデルとペロンは親しい友となるが、ペロンが抱いた親独感情だけで独亜接近を論ずるのは乱暴に過ぎる。既に大戦前の38年、アルゼンチンには、ナチスの政権掌握(33年)を懸念し脱出した知識層やユダヤ人も含め、23万6000人もの独系移民が居住。独向け貿易はじめ鉱工業や建設・不動産、運輸など幅広い分野に進出し、力を持っていた。主要移民の一角を占めた日系7000人と比べても独系の多さがわかる。
アルゼンチンは移民立国政策を採っており、定住は日独系だけではない。もともと、中立外交路線を歩む傾向のアルゼンチンではあったが、大戦勃発後も中立路線は続く。移民の母国は枢軸国/中立国/連合国に分かれ、各極の影響で国論も分裂、均衡を保つ必要があったこと。急速に成長した農牧産品輸出の相手国として、いずれの極とも関係を維持していきたい理由も有った。
遅かった宣戦布告
一方「裏庭」である中南米を絶対防衛圏と考える米国の圧力で、ブラジルやメキシコ、ペルーやチリが次々に枢軸国との国交断絶や宣戦布告を断行。米国はアルゼンチンを「ナチズムの砦」と非難した。