陸軍士官学校教授時代のペロンは日露戦争(1904~05年)を研究。大日本帝國の勝因が、独北部などに存在した国家・プロシアの陸軍より師団制などの軍制や戦術・作戦を学んだ点にもあったことで、工業化と国民統合を強力に推進したドイツによる総力戦思想に傾倒する。第二次世界大戦中の1939~41年までイタリア駐在武官だったことも手伝い、帰国後は親枢軸国将校団を組織する。従って、終戦翌年の46年に大統領に当選すると、独系戦犯を匿い軍や治安当局の育成に当たらせた。
戦犯以外にも、対空砲火で30回撃墜されながら生還し、ソ連軍戦車・装甲車など1300輌以上を空から破壊した独空軍の英雄ハンス・ウルリッヒ・ルーデル大佐(1916~82年)らが亜政府に招かれた。ソ連軍が今の価値にして1億円近い懸賞金をかけ「一人で一個師団分の働き」と称讃されたルーデルは、アルゼンチンで航空機の研究・生産に関わり、空軍士官学校で操縦や急降下爆撃戦法を教えた。
このほか、独空軍の中将や大佐、戦闘機メーカーの主任技師らが亜入り。ルーデルらは契約後帰国したが、定住し財を成した将校さえいた。