■霧に覆われた忘却の世界で
残酷な使命を持って生まれた若者たちの青春が哀切なベストセラー『わたしを離さないで』から10年。カズオ・イシグロが久しぶりに長編を上梓(じょうし)した。記憶というテーマは共通しているが、アプローチの仕方がまったく違う。SF的な設定の『わたしを離さないで』が登場人物の覚えていることに光をあてているのに対し、古典的なファンタジーの枠組みを用いた本書は忘れたことを浮き彫りにする。
舞台は6世紀か7世紀ごろのブリテン島(現在のイギリス)。異民族との戦いを制した伝説の英雄アーサー王の死後、ある程度の歳月が流れたとおぼしき時代に、物語の幕は開く。主人公のアクセルとベアトリスは、小さな村のはずれに住む老夫婦だ。村人はふたりを見下し、家で蝋燭(ろうそく)を使うことさえ禁じる。夫妻は息子に会うため、鬼が跋扈する荒野へ旅立つ。
アクセルがベアトリスを〈お姫様〉と呼ぶところなどほほえましいのに、ページをめくるたびに不安が募る。夫妻が差別されている理由も、息子の名前も、行き先がどこなのかもわからないから。実は作中の世界は奇妙な霧に覆われていて、人々はついさっき起こったことも忘れてしまうのだ。過去が思い出せなくても、アクセルとベアトリスは自分たちが愛し合っていることを疑わない。しかし、一番大切な記憶を話して不変の愛を証明した男女だけがともに渡ることができる島の話を聞き、心は乱れる。この島のエピソードは、愛にとって最大の敵が死であることを暗示しているのだろう。ふたりは旅を続けるうち悪鬼に誘拐された少年と少年を助けた戦士、アーサー王の騎士に出会い、忘却の霧を吐き出す竜退治の冒険に巻き込まれていく。