私の「ふるさと」は東京だ。これまでに東京を離れたのは、空襲の激化で長野・伊那谷(いなだに)にある父親の実家に疎開して天竜川を眺めながら暮らした数年間と、米・テキサス大学付属病院のパークランド記念病院(凶弾を受けたケネディ元米大統領が運び込まれた病院)に留学した2年余り、そして芸術と文化の街、倉敷にある倉敷芸術科学大学で学長を務めた3年弱だけである。日々変貌(へんぼう)する東京を見るのはいくつになっても新鮮な感動があり、写真が趣味の私には新たな撮影場所を探求するのが楽しみにもなっている。
子供時代の鮮明な思い出は戦後の混乱期だ。靴磨きや新聞売りで暮らす身寄りがない子供。戦闘帽と白衣という服装で街角に立ち、ハーモニカやアコーディオンを奏でる手足を失った傷病兵。米兵の腕にぶら下がるようにして歩く派手な化粧の女性。貧しく、十分な食料も手に入らない中で、誰もが必死に生きようとする時代だった。