言うまでもなく藤田は、第二次世界大戦中、従軍画家として戦争画制作で中心的な働きをした。公職追放は受けなかったが、批判から逃げるように、米国を経由してパリに向かった。
パリで暮らした晩年をつづった「夢の中に生きる」の中で、藤田は、妻の言葉のようなかたちで書いている。「あんた(藤田)が日本に生まれたのがいけないのよ。日本人が皆あんたをやきもちして、ねたんで嫌がらせして葬ってしまいたいのよ。日本人ほど、陰にかくれて策動して結託してたくらんでいる人はないわよ。ことごとくがうそつきで信用が出来ない人ばかりだわ…」(67年2月)
こうした恨み事を書きくたくなるほど、藤田の心の傷は終生、癒えることはなかった。仏国籍取得と日本国籍の抹消、カトリックの洗礼という“日本との決別”と“フランスへの同化”。その中で藤田が目指したものは何だったのか。
ポーラ美術館の島本英明学芸員が指摘するのは、「モデルに沿って描いた戦前までの時代と明らかに違うのは、空想やイマジネーションに基づく制作に変化したこと」だという。