宮本の心中は穏やかでなかったにちがいない。戦争に負けるやいなや、かつて彼が名を上げた戦争画の数々は、戦犯の片棒を担いだ動かぬ証拠として進駐軍から裁かれる火種に変わった。画家なら誰もが戦争画を描いた時代ではあった。しかし宮本は藤田嗣治と並んで誰よりも優れた戦争画を描いた。敗戦という現実は、優れた戦争画の描き手ほど罪が重くなるかもしれないという理不尽を宮本に突きつけた。
展覧会の会場をまわっていても、同じ時期に同一人物の手で描かれたとは思えないくらい、主題も手法も雰囲気も激変している。宮本は戦争画という「栄光」から、できうるかぎり急いで身を引きはがそうとしていた-そうとしか思えない。しかし、画家がおのれを世に出した絵から遁走(とんそう)するというのは、いったいどのような心境だろうか。
結果として軍部の戦争責任は、戦争画を描いた従軍画家たちのもとまでは及ばなかった。しかしだからといって、宮本が心に負った傷は早々に中央画壇の拠点に戻れるほど浅くはなかったのだろう。にもかかわらず後に宮本は、「もしも自分がもう一度同じ境遇に置かれたら、きっと同じ過ちを犯すだろう」と述懐している。