サイトマップ RSS

優れた戦争画ゆえ心に負った傷と変貌 「宮本三郎の仕事 1940’s-1950’s『従軍体験と戦後の再出発』」 椹木野衣 (3/5ページ)

2014.9.29 13:00

【宮本三郎記念美術館】「飢渇」カンヴァス・油彩、1943年(昭和18、提供写真)

【宮本三郎記念美術館】「飢渇」カンヴァス・油彩、1943年(昭和18、提供写真)【拡大】

  • 【宮本三郎記念美術館】「不詳(寝たる裸婦)」1947~48年(昭和22~23)年、カンヴァス、油彩(提供写真)
  • 【宮本三郎記念美術館】「山下、パーシバル両司令官会見図」制作中の宮本三郎、1942年(提供写真)
  • 【宮本三郎記念美術館】「不詳(兵士)」紙・コンテ・水彩、制作年不詳(提供写真)
  • 【宮本三郎記念美術館】『週刊少国民』1942(昭和17)年8月2日号(提供写真)

 宮本の心中は穏やかでなかったにちがいない。戦争に負けるやいなや、かつて彼が名を上げた戦争画の数々は、戦犯の片棒を担いだ動かぬ証拠として進駐軍から裁かれる火種に変わった。画家なら誰もが戦争画を描いた時代ではあった。しかし宮本は藤田嗣治と並んで誰よりも優れた戦争画を描いた。敗戦という現実は、優れた戦争画の描き手ほど罪が重くなるかもしれないという理不尽を宮本に突きつけた。

 展覧会の会場をまわっていても、同じ時期に同一人物の手で描かれたとは思えないくらい、主題も手法も雰囲気も激変している。宮本は戦争画という「栄光」から、できうるかぎり急いで身を引きはがそうとしていた-そうとしか思えない。しかし、画家がおのれを世に出した絵から遁走(とんそう)するというのは、いったいどのような心境だろうか。

 結果として軍部の戦争責任は、戦争画を描いた従軍画家たちのもとまでは及ばなかった。しかしだからといって、宮本が心に負った傷は早々に中央画壇の拠点に戻れるほど浅くはなかったのだろう。にもかかわらず後に宮本は、「もしも自分がもう一度同じ境遇に置かれたら、きっと同じ過ちを犯すだろう」と述懐している。

自我感じられぬ空虚

産経デジタルサービス

産経アプリスタ

アプリやスマホの情報・レビューが満載。オススメアプリやiPhone・Androidの使いこなし術も楽しめます。

産経オンライン英会話

90%以上の受講生が継続。ISO認証取得で安心品質のマンツーマン英会話が毎日受講できて月5980円!《体験2回無料》

サイクリスト

ツール・ド・フランスから自転車通勤、ロードバイク試乗記まで、サイクリングのあらゆる楽しみを届けます。

ソナエ

自分らしく人生を仕上げる終活情報を提供。お墓のご相談には「産経ソナエ終活センター」が親身に対応します。

ページ先頭へ