この会見図は1943(昭和18)年、第二回帝国藝術院賞を受賞。直後に朝日新聞社から天皇陛下を主題とする献上図の依頼を受け、渡欧前は新聞や雑誌などへの挿絵で汲々(きゅうきゅう)としていた38歳の宮本を一気に画壇の頂点へと押し上げる。
この「山下、パーシバル両司令官会見図」は、東京国立近代美術館に米国からの「無期限貸与」という風変わりなかたちで蔵されており、近年は目にする機会も増えた。が、この絵は従軍画家として宮本が現地で手掛けた多くの古典的なスケッチを積み重ね、初めて描きえたものだ。それまで触れる機会のなかった異国の風俗や日本兵の様子、軍機からの景観などは、画家としての新境地を開くものであったにちがいない。本展ではこうした貴重な小品が多く飾られている。初めて見る写真資料も多い。
一転して裸婦ばかりを
ところがどうだろう。敗戦を機に一転。宮本は裸婦ばかり描き始める。それまでのレンブラントやレオナルド・ダ・ヴィンチを思わせる重厚な作風は幕を引くように影を潜めた。この時期、宮本は疎開先であった郷里の石川県小松市から金沢へと滞在先も転々とし、けっきょく1948(昭和23)年まで東京の自宅に戻ろうとしなかった。