ニュースカテゴリ:EX CONTENTSトレンド
日本人は昔から名刺交換が好きだった 千社札がもつ万事万能万感の力 松岡正剛
更新
千社札の起源ははっきりしない。といってルーツがないわけでもない。おそらくは伊勢参りや西国札所巡りとともに、善男善女が社寺参詣の記念として「題名納札」をしたのが、ひとつのルーツになっている。
そのようになったのにも起源がある。996年に落髪した花山院が熊野の那智から美濃の谷汲までの西国三十三ケ所で、一カ所一首の歌を詠じて、それを石摺り御判の札にして貼ったという記録があるからだ。それが一般化して納札となり、さらに江戸社会に入って千社札になったのだったろう。
もっとも納札は、もともとは木製だった。幾つもの木札を箱に入れて持ち歩き、神社仏閣の柱や扉などに打って歩いたのだ。歌舞伎の『金門五三桐』で久吉が箱を肩にかけて寺社に出掛ける場面があるが、あれがその箱である。
紙に名前を書く千社札またの名の貼札が始まったについては、発明者たちの名前もわかる。天明期の鳩谷天愚孔平(きゅうこくてん・ぐこうへい)という信心深い変わり者や、寛政期の麹五吉(こうじ・ごきち)という江戸の町人が四国八十八ケ所や西国札所に紙札を貼りまくった。そのうちこれが流行してくると、寺社の境内で互いに千社札を渡し合う交換するようになり、交換会に発展していった。
これに目を付けたのが浮世絵師たちで、色刷りをつくりだした。いわゆる色札だ。いったんそうなると、信者たちも競いあい、たちまち多色刷りの凝った千社札が流行した。
こうなると千社札は町人や商人の気っ風や遊び心をあらわすアイテムになる。仲間どうしで「連(れん)」を組み、別の連中と貼る場所を争ったり、他の千社札がみすぼらしくなるほどの豪華な札をつくる者たちも、次々にあらわれた。宣伝に利用する者も出た。
流通した札は幅が1寸6分(58ミリ)で、高さが4寸8分のもので、これを一丁札と言ったのだが、そんなものじゃ目立たないというので、横幅が2倍の二丁札、3倍の三丁札も工夫された。連札という。なかには超ワイドサイズの八丁札にする者たちもいた。
千社札はいわば「信仰の場で交換される名刺」だったのである。いまではこれがオートバイや太鼓にペタペタ貼られ、さらにはTシャツにプリントされるまでになっている。
千社札の概略については上記に案内した通りだが、あらためて強調しておきたいのは、この札は「納める札」から「交わる札」へ、「神仏の前の札」から「人と人をつなぐ札」へ変化していったということだ。納札は神仏への効能だから初期の納札は紙札になっても墨一色だった。それが交換会を通していくうちにしだいに多色刷りになり、さまざまな意匠をほどこすようになった。名刺に色がついたり、派手になるのと同じだ。本書にはその千差万別がいっぱいコレクションされている。しかし、それでも千社札にはどこか大事なところへ貼っておくという気持ちが宿っている。ぼくも周囲から千社札を贈られることがあるが、いつもどこへ貼ろうかと迷う。
引札(引き札)は、江戸・明治・大正にかけて商店・問屋・仲買・販売元などが、商品や商売の宣伝のために作って撒いたチラシだ。そのルーツは千社札に似たものがあって、一遍上人が「南無阿弥陀仏」の札を配ったことに肖(あやか)ってもいる。江戸時代の引札は三井高利の越後屋が「現金安売り掛値なし」の文句を刷って、十里四方に撒いたのが最初。そうした引札を井原西鶴はおもしろがって、「これぞ商いの手引きなり」と見た。明治以降の引札は恵比須大黒・宝船・竜虎鳳凰・花鳥風月など、めでたい意匠をふんだんにあしらい、産物の土地の風景や千客万来のための文句を加えるようになった。日本の広告意匠の原型だ。
札所とは巡礼者が参拝のしるしとして、寺社の札を受け取ったり、自分の信仰の証しの札を納めたりするところのことをいう。四国八十八ケ所、西国三十三ケ所、秩父霊場などが有名だが、日本各地にさまざまな巡礼型の札所がしつらえられてきた。本書はそのガイドブック。札所を巡ることを遍路とも言ったのは、信仰者たちが観音の補陀落(ほだらく)浄土などの遠い彼方をめざして歩いたからである。この彼方のことを辺地(へち)とも言った。この札所で納札をする習わしが、やがて千社札などの流行になったことについては、すでに紹介した。今日の産業社会では、札所は異業種交流や政治パーティなどの名刺交換会となる。有り難みがあるのか、どうか。