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大阪がんばれ、適塾よみがえれ 緒方洪庵のまなざしは天に向かっている! 松岡正剛
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【BOOKWARE】編集工学研究所所長、イシス編集学校校長の松岡正剛さん=9月14日、東京都千代田区の「丸善丸の内店内の松丸本舗」(大山実撮影)
先だって久しぶりに大阪北浜の緒方洪庵の適塾を訪れて、『扶氏経験遺訓』など、展示物をゆっくり見た。ウィークデーだったので閑寂としていたが、この部屋で、あの福沢諭吉をして「凡そ勉強ということに就いては、この上に仕様もないほどに勉強した」と言わしめた凄まじい集中があったわけである。いささか身が引き締まった。
今年は洪庵没後150年で、適塾創設175周年に当たっている。適塾はその後明治になって大阪医学校となり、今日の大阪大学医学部に発展した。適塾の遺構もいまなお大阪大学が管理する。それにしては大阪人は洪庵の業績を親しいものにしていないようだ。ぼくが感じるだけかもしれないが、大阪人は懐徳堂にも富永仲基にも、山片蟠桃にも木村蒹葭堂(けんかどう)にも、誇りをもたない。文楽に資金を出せない大阪は、前途が心配だ。
洪庵は備中の下級武士の子で、8歳のときに天然痘に罹(かか)った。大坂に出て中天游の思々天塾で蘭学と医学を学び、さらに江戸に出ては宇田川玄真に、長崎に出ては蘭医ニーマンにも教えを乞うて、万全を期して大坂に戻って開業した。ところが早々に人痘法で患者を死なせたので、またまた一念発起、今度は道修町に「除痘館」を開いて牛痘法を施術し、万端の医術に長じようとした。
名声はたちまち幕府に届いて、奥医師ならびに西洋医学所頭取に任命された。やがて将軍家茂の侍医ともなって法眼の位を与えられるのだが、こういうことは性分にあわなかったようだ。洪庵には「人の為に生活して己のために生活せざるを医業の本体とす」という“医戒”があったのだ。ぜひとも大阪人に、この戒めが染みこんでほしい。
いまもって洪庵は「近代医学の父」である。天然痘の治療に尽くし、日本初の病理学書の『病学通論』を著したのだから当然だが、一方では漢方も採り入れるような柔軟性ももっていた。その集中力と柔軟性が適塾生に向けられた教育方針にあらわれた。
「適々斎塾」を略して適塾という。天保9年に瓦町に開設したのち、あまりに手狭になったので過書町に140坪の商家を得て移転した。弘化3年に大村益次郎が入塾したのを筆頭に、その後の時代の礎をつくった門下生たちが続々と育っていった。弘化元年から文久2年までの約20年間の姓名録が残っているのだが、その数636名に及んでいる。
塾生のなかでは橋本左内と福沢諭吉がとくに有名だが、日本赤十字初代総裁となった佐野常民、駐清公使を務めた大鳥圭介、五稜郭の設計をした武田斐三郎、日本初の医学博士号を受けた池田謙斎、手塚治虫の曾祖父にあたる手塚良庵など、傑材が多い。しかもかれらは決して目立とうとした者ではなかった。そこが洪庵の鞭撻(べんたつ)がゆきとどいていたところだ。
ところでぼくは、今日の日本が痛快にも愉快にもなるには、まず東京一極集中が壊れないとダメだろうと思っている。それにはまずもって商業文化のセンターである大阪がもっとダイナミックになる必要がある。そのために歴史的人物に頼れとは言わないが、学んでほしい。近松にしろ西鶴にしろ、また懐徳堂や蒹葭堂にしろ、すべては商業文化と結び付いていた力だったのである。洪庵もそのことに力を注いだ先駆者だった。13年ほど前にぼくが請われて「上方伝法塾」を開いたときも、このことを何度も強調した。シュリンクするのはまだ早い。そのあたりのこと、大阪大学も大いにがんばってもらいたい。
適塾の出身者であった村田蔵六、のちの大村益次郎を描いた小説だ。花神とは野山に花をもたらす神のことをいう。さすがに司馬は、この作品で洪庵、諭吉を配して蔵六のひたむきな個性を浮上させ、かれらがいずれも花神であろうとした生涯に光をあてた。洪庵もそうであったが、大村益次郎も自分を売り込むことなどに興味をもっていなかったのだ。司馬が強調したのは、日本をつくったのは、こうした謹厳な実務者や技能者だったということだ。
著者は洪庵研究の第一人者。『緒方洪庵と適塾生』もある。とくに洪庵の師弟関係、交友関係、夫人の八重の人脈などに詳しい。広瀬旭荘の『日間瑣事(さじ)備忘録』を紐解いて、克明に洪庵の事績を浮かび上がらせた研究など、当時の日々が微細に躍如してビリビリさせてくれた。『大坂学問史の周辺』という著書もあって、含翠堂と懐徳堂が「開かれた和漢学舎」として、いかに大坂の知層を彫り込み、また広げたかを説いて、大いに参考になった。
従来の洪庵についての本はおおむね地味すぎるきらいがあるのだが、本書はそのなかで最も新しい。石田純一郎『緒方洪庵の蘭学』や宮崎道生『シーボルト鎖国・開国日本』とともに併読するのがいいだろう。というのもぼくには、シーボルトや杉田玄白がなぜ当時の西洋医学に惚れたのか、しかもそれらが洪庵に及んでもたんなるグローバリズム讃歌にならなかったのはなぜかというあたりから、洪庵の周辺に入るのがいいのではないかと思ってきたからだ。
洪庵と八重には7人の子がいた。そのうちの次男はオランダ、三男はロシア、四男はフランスへ渡り、幕末維新を見ずして帰国。その後、独自の人生をおくった。この著者には『緒方洪庵の妻』もある。ところで昭和を代表する医者の緒方富雄、世界で活躍する緒方貞子も洪庵の血筋なのである。適塾にいた手塚良庵は手塚治虫の曾祖父であった。良庵を主人公とした『陽だまりの樹』全11巻という長編マンガもある。