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日本の悲しみと誇りを詠む89歳の歌人 岡野弘彦という伝統に浸りたい 松岡正剛

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日本の悲しみと誇りを詠む89歳の歌人 岡野弘彦という伝統に浸りたい 松岡正剛

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【BOOKWARE】編集工学研究所所長、イシス編集学校校長の松岡正剛さん=9月14日、東京都千代田区の「丸善丸の内店内の松丸本舗」(大山実撮影)  【BOOKWARE】

 先日、文化功労者に選ばれたばかりの岡野先生をわが「未詳倶楽部」に招き、みんなでその謦咳(けいがい)に接した。招いたといっても、先生が40年以上住まわれてきた地元の東伊豆の宿に来ていただき、われわれ数十人がそこに勝手に押しかけたといったほうがいい。

 先生は三重の山奥の神主の子に生まれたせいか、ずっと海の見える土地に住みたかったそうだ。日本の海辺は、師の折口信夫が解いてみせたように「マレビトの地」である。日本人は海からやってくる寄り神をマレビトとして迎え、一年ずつのマツリを伝えてきた。さらに伊豆の地は役の小角(えんのおづぬ)や頼朝がそうであったように、「流され者」が仮留する地でもあった。先生はあえてそういう伊豆を選んだのだという。

 ところでぼくは、岡野弘彦歌集を読むたびに、いったい何度胸をつまらせてきただろうか。そもそも処女歌集の『冬の家族』にしてからが、昭和28(1953)年に折口信夫(おりくち・しのぶ)に連れられて、池田弥三郎(いけだ・やさぶろう)・戸板康二(といた・やすじ)・伊馬春部(いま・はるべ)らとともにゆったり川奈ホテルに泊まったとき、その夜に激情とともに蘇ってきた8年前の記憶が一連の歌となったことをきっかけに上梓された歌集だった。

 そこには「わが友の命にかへて守りたる銃を焼くなり戦ひののち」といった歌が何首も連なって嗚咽していた。

 それから46年後、11冊目の歌集は『美しく愛しき日本』となった。どの歌も万感が胸に迫るものであったけれど、とりわけ次のような歌の前で呆然と立ちすくんだ。「オサマ・ビンラディン この世にすでに亡し。桜ののちの。庭のさびしき」「白鳥の去りてむなしき列島の しんしんとして 陽は土に染む」「みちのくの遠野(とうの)こほしき。けだものも人も女神も 山わかち住む」。

 岡野先生の歌には必ずといってよいほどに「古典」や「歌」の情景や詩句が切ないほどに出入りする。「この国の暗き古典の襞(ひだ)ふかく 息ひそめ棲む魔(もの)ぞ 恋しき」。それとともにたいてい「日本」と「神々」と「鎮魂」とが去来する。『神がみの座』という鎮魂随筆集もある。

 しかし先生は、そのような「日本」や「歌」が存分に活動しきってこなかったことを深く嘆いてもきた。どうしてこんなことになったのか。戦場に行った自分たちの責任か。戦後の民主日本のせいか。日本という国の宿命なのか。先生はずうっとずうっと、このことを問い続けてきた。そして、こういう歌を詠んだ。「この国の歌のほろぶる世にあひて 命むなしくなほ生きてをり」。

 いや、先生、100歳まで長命でいてください。未詳倶楽部の面々は、この先生の哀しみを是非とも分かちもちたいと思ったことである。

 【KEY BOOK】「冬の家族」(岡野浩彦著/短歌新聞社、700円)

 岡野先生は大正13(1924)年生まれ。皇学館普通科をへて、戦争直後の昭和23(1948)年に国学院大学を卒業した。学生時代から折口信夫の鳥船社に入って短歌を学び、戦後は師と同居して、その死を看取った。本書は1967年の第1歌集。「飛鳥川みなかみふかくたどり来て肌へに徹(とほ)る雨を耐へをり」「読みが減り信ずるゆゑに美しき明日香の御代の魂ごひの歌」「ほそぼそと我が名を呼ばす声すなり。あかとき暗き部屋のもなかに」。

 【KEY BOOK】「ハグダッド燃ゆ」(岡野弘彦歌集/砂子屋書房、3150円、在庫なし)

 岡野先生は、「自分の歌はどんな悲歌であろうとも、すべて私の生命指標(ライフ・インデクス)である」と言う。第6歌集『異類界市消息』から10年をへて刊行された本歌集にも、まさに生命指標が連綿と刻印されている。たとえば「遠つ世の歌の系譜を説き伝へ心ひたすらに わがゐたりけり」「地に深くひそみ戦ふタリバンの少年兵をわれは蔑(な)みせず」。そして「まどかなる 老いのこころを願へども 鎮まりがたし。国も われらも」。

 【KEY BOOK】「歌集 美しく愛しき日本」(岡野弘彦著/角川書店、3200円)

 最新歌集。3・11を挟んだ数年の歌を収録。歌集名は「美しく愛しき日本。わが胸のほむら鎮めて 雪ふりしきる」から。ぼくはこの歌集から、日本には「母なる父」というものがありうるのだと思えた。「子も親もいづくゆきたる。海原の水逆巻きて 家並を呑む」「身にせまる津波つぶさに告ぐる声 乱れざるまま をとめかへらず」「したたりて青海原つらなれる この列島を守りたまへな」「誰びとか民を救はむ。天皇は老いの身ふかく跪(ひざまず)きます」。

 【KEY BOOK】「万葉の歌人たち」(岡野弘彦著/NHKライブラリー、1019円、在庫なし)

 師の折口信夫の万葉集観を踏襲するように、先生は何百回となく万葉を歩き、万葉を語り、万葉をときほぐしてきた。本書はなかでも最もよく読まれてきた一冊。先生は人麻呂の「近江荒都歌」をもって万葉の原点とみなし、その解説をつねに荘重に述べてきた。壬申の乱のあとに荒れた都を人麻呂が偲んだものだ。ぼくもかつてその岡野解説に寄せて井上鑑の音と田中泯の踊りとコラボしたことがある。やっていて泣けてきた。(編集工学研究所所長・イシス編集学校校長 松岡正剛/SANKEI EXPRESS

 ■まつおか・せいごう 編集工学研究所所長・イシス編集学校校長。80年代、編集工学を提唱。以降、情報文化と情報技術をつなぐ研究開発プロジェクトをリードする一方、日本文化研究の第一人者として私塾を多数開催。おもな著書に『松岡正剛千夜千冊(全7巻)』ほか多数。「松岡正剛千夜千冊」(http://1000ya.isis.ne.jp/

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