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【軍事情勢】ケネディ大統領誕生に一役買った帝國海軍

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【軍事情勢】ケネディ大統領誕生に一役買った帝國海軍

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 米国の第44代大統領バラク・オバマ氏(52)は、第35代大統領ジョン・F・ケネディ(1917~63年)の暗殺から半世紀を迎えた11月22日を《追悼の日》と定める布告を出し、全米の家庭や企業、公的機関に半旗を掲げるよう求めた。11月27日に56歳の誕生日を、日本で迎えた長女キャロライン・ケネディ駐日米国大使の着任との相乗効果で、ケネディ一族は脚光を浴び続けている。今尚、華のあるケネディだが、大統領当選(1960年)に大日本帝國海軍の軍人たちが一役買ったとの見方は、大使が取り組むであろう日米同盟深化への道筋を、暖かく照らす効果があると期待している。

 魚雷艇に「体当たり」

 昭和18(1943)年8月2日午前2時過ぎ、帝國海軍の駆逐艦・天霧は輸送任務を終え、ソロモン諸島海域を帰航中だった。と、見張員が1キロ先に「黒いモノ」を発見する。艦長の花見弘平少佐は直ちに「総員戦闘配置」を命ずる。天霧は第五戦速(30ノット=時速56キロ弱)で航行中で「黒いモノ」は瞬く間に接近。米海軍の哨戒魚雷艇だったことが確認できた時点では接近し過ぎており、恐らくは俯(ふ)角が足らないなど、砲撃は不可能だった。

 魚雷艇は、帝國海軍による輸送作戦を妨害すべく索敵中だった。

 ここからが戦史の謎。花見艦長は「黒いモノ」が敵だと気付いたとき、とっさの判断で、右へ進路を採る「面舵(おもーかーじ)」と同時に「前進全速」を命令。32ノット(時速60キロ弱)で魚雷艇の右舷に「体当たり」を決行した。

 ところが、天霧に座乗していた、天霧が所属する第十一駆逐隊の司令・山代勝守大佐の証言は異なる。山代司令は右脇腹をさらしている魚雷艇の船尾をすり抜けようと考えた。衝突して魚雷艇が搭載している魚雷が衝撃で爆発し、天霧に被害が及ぶ事態が懸念されたからだ。司令は艦の進路を左に採るべく「取舵(とーりかーじ)を採れ」と指示する。しかし直後、花見艦長は「面舵」と、正反対の号令を発した。ただ、すぐ「もどーせー、取舵いっぱい」と言い直す。魚雷艇は右舷を見せたまま、吸い込まれるように天霧の艦首に飛び込んだ。山代司令は「単なる事故」と断じる。

 これに対して花見艦長は「司令による『取舵を採れ』は聞いていない」。命令変更もしていないと、否定している。

 昨日の敵は今日の友

 小欄に判断材料はないが、結果的に花見艦長の判断は正しかったと思量する。至近距離で魚雷が発射されれば、回避は困難だった。しかも、輸送船団の最後尾で警戒中の天霧が航行・戦闘不能に陥れば、魚雷艇は輸送船団に襲いかかっただろう。そもそも、司令は階級上位ではあるが、操艦の責任は艦長が持つ。司令による“回避命令”は逸脱行為だ。

 魚雷艇の艇長が、若きケネディ中尉であった。最高速度41ノット(時速76キロ弱)を誇るが、帝國海軍による航空偵察を警戒、機関音を抑制すべく3基のエンジンの内2基を停止して、1基で減軸運転していた。米側記録によると、突然の会敵で増速が思うようにいかぬ魚雷艇の甲板では、乗組員が火力強化のために特別に換装した対戦車砲に砲弾を装填(てん)しようと焦っていた。

 基準排水量1680トンの鋼鉄艦が38トンの木製艇に「衝撃戦法」を仕掛けたのだからたまらない。魚雷艇は真っ二つに引き裂かれる。13人の乗組員の内2人が戦死した。

 ケネディは、負傷者を命綱で縛りその端をくわえて、部下を励ましながら、5時間かけて5キロを泳ぎ、小島にたどり着く。ハーバード大学時代は水泳の選手で、泳ぎには自信があった。少しでも友軍に近付こうと島から島に泳ぎ渡る。5日目に上陸した島で、原住民と出会う。ケネディはナイフで椰子(やし)の殻に文字を彫って、友軍の基地に届けるよう身ぶりで伝えた。

 《11人生存。場所はこの原住民が知っている。ケネディ》

 斯くして、追悼式まで挙行された11人は7日目に救助される。大統領に就任したケネディは、ホワイトハウスの執務室にこの椰子の殻を飾っている。

 話を下院議員時代のケネディまで進める。昭和26(1951)年に来日したケネディは、花見氏との面会を希望する。花見氏は当時、福島県塩川町(現・喜多方市)の町長となっていた。翌日に日本出国を控えていたため会えなかったが、手紙での交誼は続く。

 《昨日の敵は今日の友》

 ケネディが花見氏に送った手紙の一節である。時は過ぎ、ケネディは大統領選挙出馬を決意する。

 天霧乗組員が選挙応援

 元高千穂商科大学教授の名越二荒之助(なごし・ふたらのすけ)氏(1923~2007年)の著書などによると、ケネディは花見氏に、大統領選の応援を頼んだ。だが、氏は多忙のため行けず、天霧の乗組員を派遣する。結果は歴史上、大統領になったことがないカトリック教徒のケネディが、得票率で1%にはるかに満たない極極(ごくごく)僅差ながら、多数派の非カトリック系キリスト教徒の、しかも時の副大統領リチャード・ニクソン(1913~94年/後に37代大統領)に辛勝する。

 「勝因の一つに、天霧乗組員の応援があったことは、否定できますまい」と主張する名越氏の見立てはこうだ。

 「ソロモン海域で死闘を演じた敵が、恩讐(しゅう)を越えて選挙応援する光景は、西部劇を好むアメリカ人には受ける。アメリカの民衆が熱狂的な反響を示したことは当然であった」

 しかし、天霧との衝突でしたたかに背中を打ち、さらに悪化を誘発したその後の漂流で、ケネディは拷問のような背中の激痛に生涯を通してまとわり付かれる。既にハーバード大学時代、フットボールで背中を大きく損傷していた。水泳への転向も、背中の激痛故(ゆえ)だった。

 この病魔が仕組む苦痛を少しでも紛らわせんと上院議員時代の56年、長い入院生活の合間に、ピューリッツァー賞を受ける大ベストセラーとなる《勇気ある人々》を上梓(し)する。執筆中に、選挙区の狭い責任感から解放され、一地方のための議員に甘んじることなく、大統領への志を最終的に固めたともいわれる。

 天霧の乗組員との《絆》と、天霧が与えた《苦痛》。帝國海軍との不思議な縁が、ケネディ大統領誕生に一役買った-と、どうしても思ってしまう。(政治部専門委員 野口裕之/SANKEI EXPRESS

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