しかも、看護婦は言葉の壁に悩まされてもいた。パリ到着までの50日間、フランス語、特に体の部位などにつき猛特訓を繰り返す。ところが、地方訛の強い兵士との意思疎通は難しく、当初は日赤への入院を嫌がる将兵も少なくなかった。
もっとも、悲惨な患者に慣れ、会話が少しずつ成立するようになると、既に称賛されていた医員の治療法に加え、ずれない包帯の巻き方など、看護技術は外国医療団の学習対象になり「戦時病院の模範」(1915年12月11日付仏紙)と激賞される。出血が止まらぬ兵士の傷口を9時間も抑え続けており、博愛の心に富んだ応対も連合軍将兵の心を打った。《史料集》に、浴衣を着た傷病兵とともに写る写真を見る。ハツメさんたちが激務の合間、血まみれで後送されて来る傷病兵用に、清潔な着替えとして縫ったものだ。斯くして、手づるを使い入院を画策する将兵まで現出する。
強烈な使命感と職業意識
派遣先政府も実力と献身的看護、規律に瞠目した。5カ月間の派遣予定が仏露2回、英国が1回延長を要請。わが国は受諾している。帰国に際し、フランスでは大統領の謝辞や政府/赤十字の表彰・感謝状、英国でも国王謁見の栄誉を得た。各界主宰の送別宴への出席も忙しかった。《史料集》に載るハツメさんの写真では、勲七等瑞宝章▽勲八等宝冠章▽仏国勲章▽日露戦争従軍記章が胸に光る。