戦争中、義一さんはインドネシアで、軍事訓練を指導する立場にあった。
終戦後は連合国軍の捕虜となり、1年後に帰国。「戦争については多くを語りませんでしたが、何事にも規律正しく、背中に一本、筋が通った人でした」
竹宮さんは3つ年下の妹との2人姉妹。「男の子がいなかったからか、私はどこか長男のような扱われ方をされ、中学生になるとテレビの時事的な話題の背景を分かりやすく教えてくれました」と振り返る。
幼い頃から絵を描くのが得意だった竹宮さんは、17歳で漫画家デビュー。地元の徳島大学教育学部(現鳴門教育大学)在学中に連載が決まり、出版社から東京に呼ばれ、ホテルに缶詰め状態で原稿を描いた。
東京の情報量の多さに驚いた竹宮さんは、大学を辞めて東京に住みたいと考えるようになり、父を説得。すると、父は一言、「行ってみるか」。娘が夢見ている漫画の世界に対し、自分が何かを言える立場ではないことを理解し、そっと背中を押してくれた。