花札、かるたの製造企業だった任天堂を世界的なゲーム機メーカーに育てた創業家の故・山内溥前社長が自身の後継者に選んだ男。若い頃からの逸話も多かった。
高校時代には、IT企業の米ヒューレット・パッカード日本法人に独学のプログラムで完成させたゲームを送りつけた。あまりのできばえに同社が驚がくし、パソコンに必要な機器をプレゼントした。
ソフトを開発していたハル研究所に入社後も、あるゲームで2年はかかるとみられた開発を半分の1年で完成させた。「あの人は頭がよすぎる」。多くの知人が岩田氏を「天才」と称した。
社長に就いたのは、宿敵ソニーの「プレイステーション」にゲーム機市場でのシェアを奪われていた苦境期だった。「ファミコン」の愛称で知られる「ファミリーコンピュータ」に次ぐ、ヒット商品の投入が最大の懸案だった。