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国民的作曲家 ニールセンの故郷 デンマーク・オーゼンセ
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音楽とはそれぞれの国にとって欠かすことができないものであり、多くの国に国民的作曲家といえる人物がいる。チェコのスメタナ、フィンランドのシベリウス、ノルウェーのグリークがそうであり、デンマークにもいる。筆者が暮らすデンマーク・フュン島のボーゲンセの隣町、オーゼンセ出身のカール・ニールセン(1865~1931年)がその人である。
ニールセンは生涯に6つの交響曲を残し、第5番は20世紀最高の交響曲だとも言われる。日本でもご存知の方は多いだろう。
もっとも、ニールセンは交響曲だけではなく、さまざまな大衆的な歌曲も残している。どちらかといえばデンマーク人は、日本の“山田耕筰(こうさく)”とまでは言わないにしても、ニールセンに対しては歌曲に親しみを感じているともいえる。
筆者が勤める国民高等学校の572曲おさめられている歌集でも、ニールセン作曲の歌は35曲と、モーツァルトからオノ・ヨーコまで数多の作曲家がいる中で最も多い。そのため、歌っていて作曲者の名前をみれば、ニールセンだったのか、と驚くこともしばしばだ。
ニールセンはオーゼンセ郊外で12人兄弟の7番目として生まれた。父親はペンキ職人で決して裕福ではなかったが、音楽好きの父親の影響で幼いころから地元の楽団でバイオリンを弾き、14歳で軍楽隊に合格した。
その後は次第に才能を開花させ、24歳で王立オーケストラのバイオリン奏者となった。作曲にも精力的に取り組み、29歳で最初の交響曲を完成させた。
交響曲のほか、オペラなども作曲し、1908年には王立劇場楽長に就任。若くして当時のデンマーク音楽界の要職を占めるようになった。
時代の違いからデンマークが誇る童話作家、ハンス・クリスチャン・アンデルセン(1805~75年)との交遊はないが、1930年には、アンデルセン生誕125年を記念し、アンデルセンの恋愛をモチーフにした劇の音楽を作曲した。
出身地・オーゼンセでニールセンの匂いに触れるには、街の中心部にあるカール・ニールセン博物館を訪れるといい。アンデルセンが生まれた家のすぐそばにあり、「カール・ニールセン・ホール」と名付けられた大ホールを持つコンサートハウスに併設されている。
博物館では、ニールセンが実際に使っていたバイオリン、数多くの曲を作ってきたコペンハーゲンの自室などが保存、展示されている。妻の彫刻家、アンネ・マリーが、ニールセン死後すぐに制作したデスマスクもみられ、少々ギョッとする。
ニールセンが作曲を担当したオペラ「仮面舞踏会」で使われた衣装も展示されている。ここ出生地では、「ニールセンは交響曲」という“偏見”は完全に覆されてしまう。(国民高等学校「日欧文化交流学院」(デンマーク名=ノアフュンス・フォルケホイスコーレ)学院長 銭本隆行、写真も/SANKEI EXPRESS)