SankeiBiz for mobile

【軍事情勢】特攻が映し出す「自己犠牲」と「赦し」

ニュースカテゴリ:EX CONTENTSの社会

【軍事情勢】特攻が映し出す「自己犠牲」と「赦し」

更新

 小説《永遠の0(ゼロ)/百田尚樹著》が映画化され12月21日に全国公開、《沈黙/遠藤周作著》も来年、撮影入りする。片や大日本帝國(ていこく)海軍の《特攻隊員》、片や江戸初期のポルトガル人《司祭》を描いた作品だ。フランス人ジャーナリストのベルナール・ミローは特攻隊員の「自己犠牲」に深い感動を覚えている。《沈黙》における司祭もまた「自己犠牲」の実践者であった。もっとも、殉教するのではない。長崎奉行所は、棄教した信者たちに尚(なお)拷問を続けた。信仰を棄てぬ司祭に棄教させるべく突き付けた地獄絵。司祭は殉教よりつらい棄教を、苦渋のうちに選ぶ。ただ、小欄の心に映る本当の主人公は、司祭を奉行所に売ったキチジローである。良心の呵責(かしゃく)に苛(さいな)まれ、救いを求め、司祭を追う。《沈黙》では、司祭がキチジローに言い聞かせる。

 「強い者より弱い者が苦しまなかったと誰が断言できよう」

 「偉大な純粋性の発露」

 立派に散華(さんげ)した特攻隊員は圧倒的に多い。その眩(まぶ)しさの陰で特攻を躊躇(ためら)った軍人もいる。悶(もだ)え、苦しみ、神か仏か、或(ある)いは戦友なのか自らになのか、「赦し」を請い続けたに違いない。「自己犠牲」を完結させた特攻隊員は英霊となり、なれなかった元特攻隊員の、もっと過酷な闘いは戦後に始まった。

 前者を称(たた)え、ミローは著作《神風(KAMIKAZE)》で言い切る。

 「西欧社会にあまりにも普及し通説になってしまっている観念、すなわち彼らが人間らしい感情をもち合わせず、人間の尊厳について無感動な、いまわしい集団心理に踊らされた動物だったという見方に、真向(まっこう)から痛撃を加え、それがいかに甚だしく誤っているか悟らしめる」

 「決行に先んじて、決心がなされていた。あらかじめ熟慮されていた死」

 「偉大な純粋性の発露。日本国民はあえて実行したことによって、人生の真の重大な意義を人間の偉大さに帰納することのできた、世界で最後の国民となった。無感動でいることも到底できない」

 斯(か)くなる特攻隊員の心の有(あ)り様(よう)を、ミローは「おだやかさや理性をともなった決意」と呼ぶ。時に、帝國海軍神風特別攻撃隊の初陣レイテ沖海戦(1944年)より、来年70年を迎える。そのフィリピン・レイテ島は、悲劇的と形容すべき台風被害を受け、自衛隊が救援活動に全力を挙げている。ミローが「おだやかさや理性をともなった」自衛隊の活動を取材したのなら、特攻隊員とどう結びつけたか興味深い。

 「2匹の蛍」の約束

 仏作家で文化大臣も務めたアンドレ・マルロー(1901~76年)も、特攻隊員と心から向き合った。

 「スターリン主義者にせよナチ党員にせよ、結局は権力を手に入れるための行動であった。特攻隊員たちはファナチック(狂信者)だったろうか。断じて違う。権勢欲とか名誉欲などかけらもなかった。祖国を憂える貴い情熱があるだけだった。代償を求めない純粋な行為、逆上と紙一重のファナチシズム(狂信的行為)とは根本的に異質である」=特攻隊戦没者慰霊顕彰会機関紙《特攻》

 フランスの哲学者にして日本文化研究家モーリス・パンゲ(1929~91年)も、著書《自死の日本史》で断じる。

 「強制され、誘惑され、洗脳されたのでもなかった。無と同じほどに透明であるがゆえに人の眼(め)には見えない、水晶のごとき自己放棄の精神をそこに見る。心をひき裂くばかりに悲しいのはこの透明さだ。だが彼らを理解するのに日本人である必要はない。死を背負った人間であるだけでよい」

 帝國陸軍の宮川三郎軍曹(戦死後少尉に特進/1925~45年)も「無と同じほどに透明」だった。しかし「透明」になれず“特攻くずれ”と蔑(さげす)まれた軍人もいる。

 宮川少尉ら特攻隊員は、知覧基地(鹿児島県)近くの、「特攻の母」と慕う鳥濱(はま)トメさん(1902~92年)経営の富屋食堂に通い、「母」に甘えることでいっときの安らぎを得た。20歳の誕生日を迎えた少尉は、翌朝の出撃を前に別れを告げに食堂に行く。食糧不足にあって精いっぱいもてなしたトメさんに、少尉は「明夜9時、2匹の蛍(ホタル)となって還(かえ)る」と約束した。もう「1匹」が滝本恵之助伍長。2人はいつも連れ立っていた。前任の特攻基地が同じだったからだけではない。共に、悪天候か機体不良で引き返してきた「負い目」を感じていた。

 強者も弱者も苦しむ

 翌夕、滝本伍長は蛍ではなく生身で、食堂に姿を現した。寡黙だった伍長の口は一層重く、かろうじて始めた説明によると、出撃時は山容すら見えぬ豪雨。沖縄海域まで飛ぶのは不可能だと判断し「帰還」の合図を繰り返したが、少尉は応じなかった、という。伍長は暗い座敷の一隅で、焼酎をあおった。

 約束の時間。蛍が食堂に舞い込んだ。伍長は「次こそは自分も行きます」と絶叫した。

 戦後、新潟県内に在る宮川少尉の墓前に、2週もの間額(ぬか)ずく滝本伍長の姿を見る。少尉の遺族が握り飯を差し入れるなどするが、伍長はいずことなく姿を消す。数日後、自ら命を絶った、ともいわれる。

 宮川少尉の最期は「天候不良による事故死」「燃料切れによる墜落死」だったとしても、汚辱を晴らす悲願の「特攻死」を遂げた。数多(あまた)の書籍で紹介され映画・舞台で蘇った少尉に比べ、伍長の伝聞は悲しいほど少ない。「帰還」は躊躇ったのではなく、敵に一矢報いる完璧な死に場所を次に期待しつつも、適(かな)わず、終戦を迎えたのかもしれない。が、今となっては知る由もない。

 いずれの心が「強い」のか「弱い」のか。どちらにしても「苦しんだ」。とりわけ「2匹の蛍」の約束を違(たが)えた伍長は、ひたすら「赦し」を求め続けたことだろう。

 《沈黙》では、イエスの顔を描いた磨(す)り減った踏絵を踏む前、司祭の足に激痛が襲う。踏絵の中のイエスは司祭に語りかける。

 「踏むがいい。お前の足の痛さをこの私が一番よく知っている。痛さを分つため(私はこの世に生まれ)、十字架を背負ったのだ」

 滝本伍長に聞かせたかった言葉…。(政治部専門委員 野口裕之/SANKEI EXPRESS

ランキング