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【軍事情勢】戦車はトラクターと呼べても特車にあらず

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【軍事情勢】戦車はトラクターと呼べても特車にあらず

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 随分以前、陸上自衛隊OBから聴いた話は面白かった。朝鮮戦争(1950~53年休戦)が勃発し、アジア情勢激変に伴い警察予備隊が50(昭和25)年に発足(52年に保安隊、54年に自衛隊に改編)。54年の日米相互防衛援助(MSA)協定署名・批准で、M4A3E8中戦車が米陸軍より供与された。日本自らが国防責任を果たすよう義務付けられたためだ。ただし、米国人との体格差がかなり大きい時代のこと。クラッチペダルの踏み込む奥行きが深く、隊員の多くは、ペダルに足が最後まで付いていかない。そこで、厚い木切れや文字通り下駄を履かせ、それを針金でグルグル回きにして装着した、という。踏み込んだ後、ペダルの戻る反動があまりに強く、弾かれる小柄な隊員もいたそうだ。日本人の体格や安全保障情勢・地形に合わせ開発された、世界トップ級の実力を誇る陸自の国産主力(第3.5世代)戦車10(ひとまる)式が現出した今、失礼ながら冗談にさえ聞こえる。

 「テケ車」に似たM24

 10式に限らず、航空自衛隊の次期戦術輸送機XC-2や海上自衛隊の固定翼哨戒機P-1など、日本ブランドの相次ぐ開発は自衛隊や防衛産業がひたむきに積み上げてきた努力と英知の結晶で、頭が下がる。

 戦争のない環境は国民にとり幸せだが、戦闘集団/防衛産業は実戦に学べないハンディを背負うからだ。第一次世界大戦(14~18年)で積極的派兵をしなかったため、大日本帝國陸海軍は欧米列強に比べ一部の装備・編成の進化に後れを取り、大東亜戦争(41~45年)の敗因の一つとなった戦史はいかにも皮肉だ。コンピューターによるシミュレーションも、一層の“実戦化”が求められる。

 米軍供与の戦車といえば、52年に引き渡しが始まるM24軽戦車も警察予備隊・保安隊史にその名をとどめる。M4A3E8中戦車に比べ、隊員の評判が良かったようだ。車体がM4A3E8より小ぶりで、日本人の体格に合致していた点がまず指摘できる。もう一つ、冒頭のOBによると「操縦・踏破性能が《テケ車》に近かった」。《テケ車》とは、帝國陸軍が30年代中後期に開発・採用した豆戦車《九七式軽装甲車》を指す。

 当然ながらM24戦車も老朽化する。何しろM24は第二次大戦(39~45年)中、北アフリカ戦線において、ドイツ陸軍と死闘を演じた英陸軍のM3軽戦車の戦果分析が、開発の取っ掛かり。大戦後半では時代遅れになっていた。その後の朝鮮戦争で、ソ連製戦車に苦戦した戦訓も契機となり、戦後初となる国産戦車開発を56年に開始する。制式採用は61年。その西暦を採り命名された戦車が戦後第一世代の61(ろくいち)式であった。

 以降、陸自戦車の命名は制式採用年の数字が充てられるが、61式が2000年まで40年近くも現役で、自衛隊史にも刻まれている現実には驚かされる。自衛隊や防衛産業の少ない予算に加え、整備や部品供給維持の労苦がうかがえる。

 待ってはくれぬ進化

 ところが採用時には既に、主要戦車保有国は第二世代の採用へと移っていた。74式の開発が早くも64年に始まったのは、こうした時流があった。

 第三世代戦車の開発着手も77年と、待ってはくれなかった。74式は第二世代としては主要国に並ぶ性能ではあったが、戦車開発は第三世代を迎えていた。自衛隊が後手後手になる次世代戦車開発の時間差を埋め、米軍はじめ世界の専門家をも唸らせる最高水準の最新鋭戦車を有するには、第三世代・90(きゅうまる)式の登場を待たねばならなかった。

 しかし、その90式をはるかに凌駕(りょうが)した戦車が10式。▽最新の情報処理システム(C4I=指揮・統制・通信・コンピューター・情報)により、友軍戦車などと相互に敵味方情報を共有→任務分担▽ナノテクノロジー技術を用い、炭素繊維やセラミックスなど複合装甲による軽量化=機動性向上の一方、防護力も強化▽スラローム=蛇行走行中でも射撃精度をさらにアップさせるなど、最高度の射撃統制(照準)装置に連動した軽量戦車砲と高威力弾薬の併用による攻撃・機動力増強…等等。

 戦車先進国の3.5世代戦車がほとんど70~80年代のハード・ソフトを改良・発展させた《改修型》なのに対し、10式は新たに開発した技術に彩られている点もまぶしい。

 斯(か)くなる技術の起源は、戦前のノウハウと、それを基本に朝鮮戦争中、戦場より後送された米軍戦車の修理・整備を通した学習に遡(さかのぼ)る。以来、国産技術開発の高みを目指し続けてきたが、崇高な国家観をはじめとする強靱(きょうじん)な信念が支えなければ、到達できぬ高度な領域であった。

 開発時に付けた暗号名

 ところで、機密の宝庫=兵器の開発時、列強は暗号名を付けるケースが多かった。例えば、英国は第一次大戦時、機関銃による連射を跳(は)ね返し、塹壕を乗り越えるべく戦車を開発した。その際、新兵器開発秘匿のため、英国は「水を入れる《タンク》を製造している」と欺(あざむ)いた。こうしてタンクは戦車の英語呼称となっていく。第一次大戦で敗北を喫し、ベルサイユ条約(19年)で戦車などの輸入・製造を禁じられたドイツも第二次大戦までの戦間期、《農業用トラクター》という偽装名称で密(ひそ)かに開発を続けた。

 61式もまた防衛庁長官の開発指示(55年)から7年近く、《中戦車》ではなく《中特車》と呼ばれていた。こちらは機密保持に向けた高尚な工作ではない。憲法上の制約をすり抜けようと、「自衛隊は軍隊にあらず」を強調する哀れな造語。しかも、晴れて《戦車》となって2年以上たった64年上映の東宝映画《モスラ対ゴジラ》では依然、《特車》と銘打った61式(実はM24を加工)のミニチュアが登場した。真意は定かではないが、それだけ国民は「軍隊=悪」という反戦左翼思想に、今以上に汚染されていたに違いない。10年近く前、講演後に主婦の質問を受けた。

 「陸自には普通科(歩兵)だけでなく、商業科もあるのですか?」

 自衛隊を知ろうとする前向きな主婦の無垢な意欲、国防に対する教育の欠如、いまだ歩兵などへの呼称復帰を決断しない国家的怠慢…。数多(あまた)の理由で笑うことはできなかった。(政治部専門委員 野口裕之/SANKEI EXPRESS

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