陛下の悲しみ・苦しみを、側近や記者は能く理解していた。御巡幸は昭和21~29年まで、真夏や雪降る中、時には手当がつかず列車や学校の教室に泊まられながら続いた。お立ち寄り先は米国施政下の沖縄を除く全都道府県1400カ所以上、全行程は3万3000キロ。奉迎者は数千万人に達するが、困窮の実情など一様に具体的だったご下問に「宮中でのご不自由な生活」を直感し、恐縮する。ここに陛下と国民は悲しみ・苦しみを一層共有するに至る。慰め励まされ、勇気を頂いた国民は、戦後の奇跡的復興へのエネルギーを蓄え、やがて社会で発揮していく。
実は孤児に接する前、陛下にお迎えの言葉を言上した知事が、嗚咽で言葉を詰まらせていた。側で見て「不覚をとるまい」と肚を据えた住職も落涙した。そればかりか、ソ連に洗脳されたシベリア抑留帰りの過激な共産主義者の一団まで声をあげて泣いた。彼らは害意をもって参列していた。
皆、陛下のご心中を察しつつ、その温かみに感極まったのだ。自らの戦中・戦後も重ね合ったに違いない。諸外国にも権威や権力は数多存在するが、かくも濃厚な空間の内側で国民とつながっている国体は、ほぼ皆無であろう。