パラオ入りしていない小欄が畏れ多き事柄に触れるのは、九州在住の友人に聴いた逸話で、先帝(昭和天皇)陛下が背負い続けられた深い悲しみと苦しみ、国民に寄り添う立ち位置をあらためて知ったことにも因る。住職・調寛雅(しらべ・かんが)氏の著書《天皇さまが泣いてござった=教育社》に詳しいが、そのお姿は刻苦を正面から引き受ける修行僧のようでもある。
先帝陛下、御行幸での涙
先帝陛下は昭和24(1949)年、佐賀県に行幸あそばされた。敗戦で虚脱した国民を励まされる全国御巡幸の一環で、ご希望により因通寺に足を運ばれた。寺では境内に孤児院を造り、戦災孤児40人を養っていた。陛下は部屋ごとに足を止め、子供たちに笑みをたたえながら腰をかがめて会釈し、声を掛けて回られた。ところが、最後の部屋では身じろぎもせず、厳しい尊顔になる。一点を凝視し、お尋ねになった。
「お父さん、お母さん?」
少女は2基の位牌を抱きしめていた。少女は陛下のご下問に「はい」と答えた。大きく頷かれた陛下は「どこで?」と、たたみ掛けられた。
「父は満ソ国境で名誉の戦死をしました。母は引き揚げ途中、病のために亡くなりました」