日露戦争での挺身斥候
無人機は長時間・長距離任務にも耐える。《翼龍》の最高飛行高度は5300メートル▽航続距離/時間は4000キロ/20時間。これが米軍のMQ-9リーパーだと各1万5000メートル▽5900キロ/28時間に達する。
偵察任務がいかに危険で、作戦次第でいかに長距離/長時間を踏破するかを戦史にも観る。菅直人(かん・なおと)・元首相(67)が東日本大震災で乱発して、その価値をまた一段と下げた「決死の覚悟」なる言葉が、日本にはかつて間違いなくあった。率先して身を投げ出し、困難に当たる行為を《挺身(ていしん)》、身を投げうち任務を遂行する部隊を、大日本帝國(ていこく)陸軍では《挺身隊》と呼んだ。戦死確率が高い偵察を《挺身斥候》という。
日露戦争中の1905年1月、帝國陸軍はロシア軍主力が奉天に布陣するか、後方まで下がるか、決戦場につき逡巡(しゅんじゅう)していた。そこで「日本騎兵の父」と呼ばれる秋山好古(よしふる)少将(1859~1930年/後に大将)は山内保次少尉(1881~1975年/後に少将)以下4騎に、露軍主力の後方に回り込む挺身斥候を下令する。山内挺身隊は露兵を装うなど、潜行すること18日/1000キロ。極寒期での野営や食料調達、敵の追撃に苦しみながら敵情を見事探り当てた。霧中、敵100騎と遭遇しながら平然と横を通過、敵縦隊の最後尾に張り付いての前進まで敢行しており、不敵な行動は痛快この上ない。