同社が実用化に乗り出したのは平成15年。芦田社長の知人だった米国の製薬会社社長が来日した際、開発の初期段階だったこの細胞性医薬品について聞いたのがきっかけだった。
まだ再生医療や細胞治療などは実用化どころか、情報もほとんどなかった時期だったが、同社の研究員が興味を示した。研究員を米国に派遣し、医学界の権威に話を聞くなどしたが、芦田社長は「確かにおもしろいが、薬にするのは大変だとみんなに言われた」と打ち明ける。それでも、そこは中堅企業ならでは。芦田社長が「おもしろそうだ」と判断し、米国の製薬会社から日本での製造・販売などの権利を取得。初期のアイデア段階から具体的な製品化を目指し、臨床試験(治験)などを進めることになった。
製品化に向けた研究は当初から苦労した。開発担当の立花克彦専務は「ヒトの細胞を使うということへの抵抗が強かった」と振りかえる。