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中国の言論統制は意外と緩い 渡辺武達

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中国の言論統制は意外と緩い 渡辺武達

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 【メディアと社会】

 中国当局によるメディア統制の厳しさが日本ではよく話題になる。最近の例では、四川省遂寧市の地方紙記者が省秘書長の名前を書き間違えたことで内部の批判を受け、それを苦にして自殺したのではないかという報道があった。中国のネット情報では、母親に「もう静かになった方がましだ」という遺書を残し、その遺書の写真も添えられている。

 中国では1949年の建国以来、共産党とその指導には誤りがないということを前提に政治が行われてきた。それは、ソビエト共産党のやり方をまねたことと、それだけ厳しくしないと、毛沢東主義が維持できないという事情があったからだ。

 外交、民族問題は徹底

 だが、現在の中国は今も大枠としてそのやり方を踏襲しているのだろうか。筆者は、71年の「ピンポン外交」に関係して初訪中した。以来、80回ほど訪れてきたが、その間に中国の言論・表現の自由の内実はずいぶんと変わってきた。

 最初は直行便がなく、当時は英国領の香港まで飛行機で、そこから中国との国境を歩いて渡り、広州市まで列車で行き、また飛行機で北京へ飛ぶという、2日がかりであった。

 列車では、中国側から「橋の写真などは撮らないように、米国が空爆の目標にするから」と言われビックリした。当時の中国は文化大革命の真っ最中で、毛沢東国家主席に反する言論はすべて違法だったから、交渉相手はかならず「毛主席は…」と冒頭で引用した。当時、出会った中国学者の貝塚茂樹氏は「中国人は共産主義も文革も民族的に向かないからすぐ変わる、単なる漢民族中心主義だから…」と話していたが、いま思い出すとまさに正鵠(せいこく)を射るものであった。

 だが、政府が認めるだけでも54ある異民族の集合体が現在の中国という国で、それを漢民族主義で統一しようとするところに無理がある。チベット族やウイグル族があれほどの弾圧を受けるのは、民族として認めれば国家原理が崩壊するからである。しかし、それ以外のことは、日常生活や大学の講義では比較的自由だと、体験からいえる。厳しく統制されているのは外交と民族問題で、国営の通信社の新華社、テレビ局のCCTV(中国中央テレビ)、新聞の人民日報を中心として徹底される。

 だから、現在の習近平国家首席体制でも経済や文化の面ではユルユルで、幹部の1人が汚職容疑で告発されるまでに1兆円を超える蓄財をため込んでいた。

 字幕の間違いで懲役も

 それでは日本ではメディア統制はないのか。日本語でも地名と人名は当用漢字を習うだけではなく、相当な漢字学習を積んだ人でも地名や人名を正確に発音することは難しい。だからそうした表現は注意され、特殊地名や政治家などの固有名詞は、パソコンで正確なフルネームを記憶させている。

 それでも校閲で見逃され、失敗がしばしば起きている。具体例を挙げれば、7月18日にNHKで放映された音楽番組「SONGS」の長渕剛特集で、彼がその持ち歌「親知らず」を冒頭に歌った。

 これは彼が紅白歌合戦に最初に出場した90年に初めて世に出たメッセージソングで、イラクのクウェート侵攻問題を彼なりに解決しようと、「俺の祖国 日本よ!どうかアメリカに溶けないでくれ!」「ゴルバチョフもフセインもブッシュも海部さんも お暇なら 明日俺の家に遊びにきてくれねえか!」と歌った。NHKの番組では、その部分が変えて歌い、画面の字幕は「プーチン オバマに周さん 朴さん 金さん 安倍さん!」となっていた。ロシア大統領、アメリカ大統領、韓国大統領、北朝鮮第一書記はすぐわかったのが、「周さん」には戸惑った。だが、脈絡からいえば、これは「習近平国家主席」のことだろう。これが中国であれば、この字幕の責任者は相当な処罰を受け、下手すれば懲役になる。

 中国の新聞記者は、国家新聞局の免許制でまったく自由がないといわれるが、実際には政府の根幹方針に触れる部分は厳格な統制を受けるが、その他はユルユルだ。「一国二制度」の象徴である香港のメディアも、娯楽番組では自由が許されているが、北京政府批判は統制される。一方、日本では政府批判は統制されないが、市場自由主義批判はタブーとなっている。(同志社大学社会学部教授 渡辺武達(わたなべ・たけさと)/SANKEI EXPRESS

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