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【拉致再調査】「長く待てぬ」 亡き父母の思い継ぐ あす日朝協議
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拉致被害者の再調査に「期待しているが、日に日に焦りが増す」と話す市川修一さんの兄、健一さん=2014年6月11日、鹿児島県鹿屋市(松岡朋枝撮影) ≪北朝鮮 日本海にミサイル2発≫
北朝鮮は6月29日午前5時ごろ、南東部の元山(ウォンサン)付近からミサイル2発を日本海に向けて発射した。韓国軍合同参謀本部が発表した。短距離弾道ミサイル「スカッド」の一種とみられ、約500キロ飛行したという。
スカッドは射程から、韓国を攻撃するためのものとみられている。7月3日には中国の習近平国家主席が韓国を訪問し、朴槿恵(パク・クネ)大統領との間で首脳会談が行われる。北朝鮮の核やミサイルの問題が話し合われる見通しであることから、ミサイル発射は中韓の接近を牽制(けんせい)したものとする見方が、ソウルでは一般的だ。
北朝鮮は(6月)26日にも元山付近から、ミサイル3発を北東方向の日本海に向け発射した。この時は約190キロ飛行しており、韓国では300ミリ多連装砲だったと推定されている。北朝鮮メディアは翌(6月)27日、金正恩(キム・ジョンウン)第1書記が「新たに開発された戦術誘導弾」の試験発射を視察したと伝えており、前日の発射を示唆した形だ。
北朝鮮は2月下旬以降、短距離ミサイルなどを断続的に発射。3月末には日本を射程に収める中距離弾道ミサイル「ノドン」を発射した。今回のミサイル発射に際し、北朝鮮は落下地点周辺への航行警報を出していない。(ソウル 名村隆寛/SANKEI EXPRESS)
≪「長く待てぬ」 亡き父母の思い継ぐ 拉致再調査 あす日朝協議≫
拉致被害者らの再調査をめぐる日朝政府間協議が7月1日に始まる。調査対象となる拉致被害者や特定失踪者が消息を絶ってから長い年月が過ぎ、亡くなった家族も少なくない。協議直前の(6月)29日に短距離弾道ミサイルを発射した北朝鮮との交渉に不安も高まる中、残された家族は再調査の行方を見つめている。
再調査合意から1カ月近くがたち、1978(昭和53)年8月に北朝鮮に連れ去られた市川修一さん=拉致当時(23)=の兄、健一さん(69)は「待ち続けたチャンスがめぐってきたと期待しているが、日に日に焦りが増す」と話す。
「修ちゃんに会いたい」が口癖だった母のトミさんは2008年、91歳で他界。その年、鹿児島県鹿屋(かのや)市に自宅を新築し、修一さんの部屋も用意したが、再会はかなわなかった。父、平(たいら)さんも今年で99歳になった。
再調査を平さんには伝えていない。最近、父が拉致された息子のことを話題にするのが少なくなったからだ。
「修一の話が父に心労をかけるかと思うと…」
トミさんと修一さんの再会が果たせなかったからこそ、健一さんは何とかして平さんに修一さんを会わせてあげたいと願う。時間の経過とともに焦りが強まる中、「今年中には拉致被害者の帰国を実現させてほしい」と願っている。
市川さんとともに拉致された増元るみ子さん=拉致当時(24)=の姉、平野フミ子さん(64)も焦りを抱えながら、協議を見つめる。
「そんなに長くは待てない。早期に結論を出してほしい」
鹿児島県内の自宅で帰国を待ちわびる母の信子さんは今年87歳になる。足腰が弱り、横になって過ごす日も増え、拉致問題のことを口にする機会も減った。
日朝間で拉致被害者らの再調査で合意した後、平野さんは電話で信子さんに「るみ子が帰ってくるかもしれんよ」と伝えた。沈んでいた声に明るさが戻る様子が、受話器越しにも伝わってきたという。
父の正一さんはまだ拉致問題が広く認知されていなかったころ、署名活動を素通りする人たちに涙を流して協力を訴えた。しかし、救出への思いは届かず、02年10月、5人の拉致被害者が帰国した2日後に、79歳でこの世を去った。
それだけに、平野さんは「母に一目、妹を会わせて『よかった』と笑顔にさせてあげたい」と母が笑顔を取り戻す日を夢見る。
今回の調査対象となった特定失踪者の家族も思いは変わらない。
1973年に千葉県から行方不明になった古川了子(のりこ)さん=失踪当時(18)=の姉、竹下珠路(たまじ)さん(70)は毎月、JR千葉駅前(千葉市中央区)で署名活動を実施している。
2008年4月から署名を始めた理由について「家族がコツコツ訴えなければ問題は解決しない」と話す竹下さん。今は亡き両親のため活動に力を入れる。
娘の失踪後、父、九洲男(くすお)さんと母の朗子(さえこ)さんは了子さんの同級生に手紙を送るなどして娘を捜し続けた。一方、失踪する原因を作ったのは自分たちかもしれないと、過去の言動を思い返しては悩んでいたという。
だが、九洲男さんは1996年に88歳で死去。年金をもらうたび「これは了子の分」と一部を貯金していた朗子さんも2010年に94歳で亡くなった。
「両親がどれほど妹を捜して、心配し、悩みながら帰りを待っていたかを妹に伝えなければいけない」。両親の思いを伝える日が来ることを信じ、竹下さんは今も活動を続けている。(SANKEI EXPRESS)