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長崎 「廃虚の聖地」軍艦島 静謐なモノトーンの世界

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長崎 「廃虚の聖地」軍艦島 静謐なモノトーンの世界

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 そこに一歩足を踏み入れた瞬間、まるで世界が滅びたあとに自分だけが取り残されてしまったような錯覚に陥った。

 空高くそびえ立つコンクリートの高層鉄筋住宅群は朽ち果て、窓はほとんどが割れてしまっている。足下にはバラバラになった木材やコンクリート片が散乱する。聞こえてくるのは寂しげな風の音だけだ。

 長崎港から船に揺られること約40分で、長崎市の中心部から南西に約19キロの沖合に浮かぶ通称、軍艦島(ぐんかんじま)に着いた。

 南北約480メートル、東西に約160メートル、周囲約1.2キロ。島影が軍艦「土佐」に似ていたことからこう呼ばれるが、正式名称は端島(はしま)という。かつて海底炭鉱で栄え日本の近代化を支えたが、石炭から石油へとエネルギー政策が転換したことなどから1974(昭和49)年に閉山。炭鉱施設の多くは解体され、現在は高層住宅群だけが残る「廃虚の島」だ。「廃虚ファンの聖地」とも呼ばれる。

 今回、長崎市の特別の許可を得て島に上陸、立ち入り禁止区域に入って島内を撮影する機会を得た。

 この島で初めて石炭が発見されたのは19世紀初頭のこと。その後1890(明治23)年、三菱が島ごと買収し、本格的に採炭を開始した。以降、炭鉱労働者とその家族が島に移住し、1916(大正5)年には日本初の7階建て鉄筋アパートが建てられた。最盛期の1960(昭和35)年には約5300人が住み、当時の東京の9倍もの人口密度に達した。島内には病院や食堂、神社のほか、映画館、スナック、パチンコ店、プールといったさまざまな施設が建てられた。

 ≪日本を支えたエネルギー感じて≫

 島内を歩くと居住空間を快適にするためにさまざまな工夫が施されていたことに気づく。エレベーターがない代わりに空中回廊が造られたり、室内に光を取り入れるための中庭や、屋上には草木が植えられ、そして子供のための滑り台が設置されていた。

 また時折、がれきの中から割れた茶碗やビニール製の女性のサンダルなど、人が住んでいた痕跡に出合う。

 かつてこの島は、日本の近代工業を支え激動の20世紀を生き抜いたエネルギーに満ちあふれ、島を造り上げた人々の強靱(きょうじん)な精神が息づいていた。

 軍艦島は長らく忘れ去られていたがここ近年、産業遺構としてマスコミで紹介され再び脚光を浴びるようになった。昨年(2013年)には、「明治日本の産業革命遺産 九州・山口と関連地域」の構成資産28施設の一つとして、国連教育科学文化機関(ユネスコ)に推薦が決定。コンクリート高層建物群は崩壊の可能性が指摘されており、長崎市は建物群保存のため、国から2分の1の助成を受けて昨年(2013年)11月の補正予算に1740万円を計上した。長崎市世界遺産推進室によると、今年夏ごろ国際記念物遺跡会議(イコモス)による現地調査を経て、2015年の世界遺産委員会で登録の可否が審査される見通しだ。

 廃虚となった「不沈艦」は、無人島となってから40年という月日が流れてもなお、その圧倒的な存在感は人を惹き付けてやまない。(写真・文:フォトグラファー 中尾由里子/SANKEI EXPRESS

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