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【軍事情勢】心外なユダヤの「東條批判」
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1940(昭和15)年9月27日、東京・麹町の外相官邸で開かれた「日独伊三国同盟」締結祝賀会に臨んだ東條英機陸相(当時、軍靴姿の中央)。同盟は同盟として、一方で東條はユダヤ人の痛みに情けをかけていた。乾杯の音頭を取っているのは松岡洋右外相 《安倍晋三首相(59)や閣僚が、アジアの(ドイツ指導者アドルフ)ヒトラー(1889~1945年)である東條英機陸軍大将(首相/1884~1948年)らA級戦犯を祀(まつ)る靖國(やすくに)神社を参拝している》
1月21日付イスラエル紙に載った中国大使の寄稿だ。歴史認識が間違いと認識しながら世界中で繰り返す猟奇的謀略で、毎回反論せねばならぬ。一方で2013年12月末、ユダヤ系団体サイモン・ウィーゼンタール・センター(本部・米国)の非難声明は憤るより悲しかった。曰(いわ)く-
「亡くなった人を悼む権利は万人のもの。だが、戦争犯罪や人道に対する罪を実行するよう命じたり、行ったりした人々を一緒にしてはならない」
失望理由の一つは、ホロコースト(ユダヤ人大量虐殺)の記録保存や反ユダヤ主義監視を行い、国際的影響力を持つ組織なのに、正確な国際法制史を学んでいない?点だ。「人道に対する罪を実行するよう命じたり、行ったりした人々」は靖國にお祀りされていない。
《人道に対する罪》は第二次世界大戦の独降伏後、ドイツ人を裁くため1945年8月8日、ニュルンベルク裁判の基本法・国際軍事裁判所憲章で初めて規定。(a)平和に対する罪(b)殺人と通例の戦争犯罪(c)人道に対する罪-が、国際軍事裁判所で所管する《犯罪》とされた。
日本人を裁いた極東国際軍事裁判所条例でも、憲章にならい各各所謂(いわゆる)《ABC級犯罪》が定められた。しかし《人道に対する罪》は適用できなかった。勝者による敗者への復讐(ふくしゅう)劇でもあった極東国際軍事裁判ですら、連合国はドイツの如(ごと)き特定民族に対する絶滅意図をでっち上げるのが不可能だった。この点、ニュルンベルク裁判では、22被告の内16人が《人道に対する罪》で有罪になる。センターは日独を同一視しているのではないか。
そもそも《人道》と《平和》に対する罪は、米国が1944年秋から1年に満たない短期で創り上げ憲章制定前にはない。戦争開始・遂行を犯罪とする《平和に対する罪》に至っては、米国/英国/中華民国が降伏を求め日本に突き付けたポツダム宣言(45年7月)時点で、犯罪とされていない。二罪とも慣習国際法として確立していなかったのだ。
欧州大陸法系近代刑法は、実行時の合法行為を事後に定めた法令で遡(さかのぼ)り処罰することを禁ずる。《事後法の禁止=法の不遡及(ふそきゅう)》である。
極東国際軍事裁判所設立は、裁判9カ月以上前のポツダム宣言でうたった《俘虜(ふりょ)を虐待せる者を含む戦争犯罪人には厳重なる処罰を加へらるべし》が根拠。仮に罪を問うのならB級の《殺人と通例の戦争犯罪》だけなはず。実際、日中の左翼が「大日本帝國(ていこく)陸軍が中国人民を大量虐殺した」と捏造(ねつぞう)・粉飾を続ける、所謂《南京事件》について、南京攻略戦司令官をC級の《人道に対する罪》ではなくA級の《平和に対する罪》で起訴。しかも無罪となり、B級で有罪となった。
所謂《戦犯》自体も誤認している。52年のサンフランシスコ講和条約発効を受け、日本は主権回復し《各級死亡戦犯》を《公務死》と認定した。条約では、裁判を牛耳った11カ国の過半数の同意を得られれば《戦犯》を赦免できると規定。外国の異論もなく、58年までに全員釈放となった。既述したが、もともと“C級戦犯”は存在せず、“AB級戦犯”も靖國にお祀りされていないということ。
センターは人種・民族差別に対する帝國陸海軍の立ち位置も正しく復習・認識しなければならない。連合国は《人道に対する罪》を問えなかった、どころではない。日本は、迫害を逃れた万人レベルのユダヤ人を世界で助けた。例えば-
35年に独施政下のユダヤ人は公民権を奪われ難民となり外国に逃れた。一説に数千人のユダヤ人が38年、シベリア鉄道で滿洲(まんしゅう)國近くのソ連にたどり着く。ソ連に入国拒否された難民は滿洲國入りを切望したが、滿洲國も拒む。滿洲國防衛を担う帝國陸軍・關東軍(かんとうぐん)の樋口季一郎少将(後に中将/1888~1970年)は、吹雪の中に立ち尽くす難民を見かね食料・衣類・燃料や加療を施した。さらに、滿洲國外務省や南滿洲鉄道(滿鉄)を説き、滿洲や上海租界への移動を周旋した。日独防共協定(1936年)を結び、日独伊三国同盟(40年)まで視野に入れていたドイツは断固抗議。樋口は關東軍参謀長時代の東條中将に呼ばれる。樋口は東條に「ヒトラーのお先棒を担ぎ弱い者いじめをすることが正しいと思われますか」と質(ただ)し、東條も受容した。滿鉄総裁が、後に外相として三国同盟に傾斜する松岡洋右(ようすけ、A級戦犯被告。未決中に病死/1880~1946年)だった点も興味深い。
ユダヤ難民への入国ビザ発給国は著しく限られた。斯(か)かる状況下の39年以降、英米列強と日本による上海外国人居留地=共同租界の帝國海軍陸戦隊警備区も、ユダヤ神学生300人や1万8000人ものユダヤ難民のビザ無し入境を許している。
ユダヤ難民の扱いでは、永世中立国スイスでさえ暗部を抱える。スイスはドイツとともに38年、ユダヤ人旅券にユダヤの頭文字《J》のスタンプ押印を義務付けた。キリスト教文化の根付くスイスには19世紀半ば以来、反ユダヤ主義が認められる。そこに、労働市場を難民に奪われる懸念やドイツの侵攻を恐れるスイス政府の意向が加わった。42年には、ユダヤ人を念頭に難民の国境引き離し政策を実施。多くのユダヤ人がスイス入国を果たせなかったが、出発地への帰還は死を意味した。
人種差別も後押しした米国の対日強硬策を、ユダヤ人を通し打開する工作の一面もあったろう。だが、“A級戦犯”として絞首刑となった東條はじめ日本の軍人が、ドイツを含む欧米列強による蔑(さげす)みに悲憤し、ユダヤ人の痛みに情けをかけた心根(こころね)は紛れもない。
もしユダヤ社会が、宗教観の違う日本に偏見を抱き、意図的に批判するなら大いなる矛盾だ。偏見こそ、ユダヤの敵ではないか。ユダヤ人を救ったのも、日本人のDNA=おおらかな宗教観故ではなかったか。
ところで、イスラエルの中国武器市場のシェアは2位、韓国でも3位前後に陣取る。ただ、小欄はユダヤ社会が優しき武士(もののふ)の心を仇(あだ)で返し“算盤(そろばん)勘定”を優先したとは努努(ゆめゆめ)思わない。(政治部専門委員 野口裕之/SANKEI EXPRESS)