滿洲防衛を担う關(かん)東軍の一部に終戦を潔(いさぎよ)しとせず、徹底抗戦も辞さぬ不穏な動きが察せられた。このため、大命=勅命により明治天皇(1852~1912年)の孫・竹田宮恒徳(つねよし)王(1909~92年)は聖旨(せいし、天皇陛下の思(おぼ)し召(め)し)を伝達すべく滿洲に赴かれた。滞在中の3日間、宮御(ご)搭乗機を4機の戦闘機・隼(はやぶさ)が護衛した。担任したのは全員教育飛行隊教官で、生き残った戦闘機操縦者の中では抜きんでた技量の持ち主だった。
4機は奉天=瀋陽の飛行場に帰還せんとするが、ソ聯軍が占領。地上では虐待や法外な勝者の要求を繰り返していた。
飛行場上空で、編隊は悠悠(ゆうゆう)と雁行(がんこう)形を保ちつつ、滑走路に沿い超低空で通過した。慌てふためくソ聯軍将兵。屈辱に耐えていた帝國陸軍将兵は欣喜雀躍(きんきじゃくやく)した。大きく反転した編隊は再度、反対方向から通過し、今一度大反転して、またも超低空で進入してきた。