けれどもしかし、私たちはその境をそのときにしか越えていないのだろうか。実は、現在の或いは再生された記憶のなかで、その境と、その境を何度も何度も越えていて、身の安全のため、というのは、気が振れないようにするために、その境を越えたことを、意図的に忘れてしまっているのではないだろうか。と、読み狂人は、『鐘の渡り』を読んで思った。
小説のなかで、語り手の意識はこの境を自由に越えたり戻ったりするが、境はこの世のいたるところにあって、夜が明けきる前と夜が明けた後の境であり、桜の咲く前と後であり、鐘の鳴る前と後であり、また、角を曲がる前と後には境があるが、角そのものが境でもあり、角は辻であり、運河であり、また、建物の内と外、廊下の手前と突き当たりにも境があって、その境は生死の境と同じくらい危ういのである。なぜならそれが境だからで、境を越すことによって、いろんな、匂い、味、気温、日の光、記憶、男女のこと、天候、体調その他一切が、入れ替わるみたいに変換されてしまうからである。アクロバットである。なんていうと怒られるか。しかし、読み狂人のようないまの世代は発句なんてもうぜんぜんわからない。わかっているというオタクもそういう意味でわかっているのではないのではないか、とも思う。