けれどもそれらはいずれにしても地理的なというか、まあ、表そうと思えば地図上に表すことのできる、嫌みな感じで言えば、しょせんGoogle的な考え方で把握できる、境である。
しかし、私たちは誰もがもっとわけのわからない、けれども確実にあって、くっきりした境を自分自身のなかに持っている。生まれる前と生まれた後、の境と、死ぬ前と死んだ後、の境である。
この境は間違いなくあり、誰もがかつて越し、これから越す境である。しかし、難儀なことに、いずれの境もそれを越すことによって意識がないというか、意識の意識が、現状の意識の意識とは違う意識で多分、意識されると思われるので、いま現在の意識で、「あ、いま練馬区に入ったな」とか、「おおっ、なんか祖師ヶ谷大蔵っぽくなってきたな」みたいに思うことはできないのである。
意図的に忘れている?
けれどもしかし、と読み狂人が思うのは、古井由吉の『鐘の渡り』を読んだからである。