豊臣秀吉が伏見城築城の際に宇治川に架けた豊後橋=ぶんごばし=(現・観月橋=かんげつきょう、京都市伏見区)について、江戸時代後期の伏見奉行が橋の管理を徹底するよう町役人らに通達した文書が見つかった。奈良に通じる近道として人々の往来に重要な役割を果たした豊後橋だが、幕末の鳥羽伏見の戦いで焼失。これまで関連史料はほとんど見つかっておらず、関係者は「当時の歴史を知る上で貴重な文書だ」と話している。
豊後橋は文禄3(1594)年、現在の京阪観月橋駅近くに架けられた全長約160メートルの木造の橋。焼失後の明治6(1873)年に同じ場所に再建され、秀吉が周辺で月見を催したとの伝承にちなみ、観月橋と名づけられた。
文書は伏見区内の旧家で発見。縦約35センチ、横約95センチで、伏見奉行だった内藤豊後守が就任翌年の天保10(1839)年に町役人にあてたとみられる覚書だ。「出火の場合、火元が遠くであっても橋へ火の粉が来たら急いで駆けつけ、橋を第一に守りなさい」「番人は毎夜、(くぎなどの)金物類が盗み取られないように守りなさい」「月6回、橋を念入りに掃除しなさい」などと橋の管理について指示しており、内藤の黒印が残されている。