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【movie,or not movie】この静寂に含まれる彼らの熱量 篠山輝信
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映画「大いなる沈黙へ-グランド・シャルトルーズ修道院」(フィリップ・グレーニング監督)。7月12日公開(テレザ提供)。(C)A_Philip_Groning_FilmProduction □映画「大いなる沈黙へ-グランド・シャルトルーズ修道院」
劇場にいるときにたまらなく好きな瞬間がある。それは沈黙だ。カーテンコールの割れるような拍手ももちろん素敵だけど、芝居の最中、劇場内の空間を共有している全ての人間が目の前で起こっているものに集中し、固唾(かたず)をのんで次の瞬間を待ち構えているときに生まれる限りなく深い沈黙。この瞬間こそ劇場での一番の醍醐味だと僕は考える。一番強いドラマが生まれる瞬間というのは必ずしも人が泣き叫んでいるときでも、荘厳な音楽が鳴り響いているときでもない。静寂のなかに圧倒的な熱量を内包した沈黙というのが確かに存在する。
修道院という言葉の持つミステリアスな印象は、おそらく多くの人にとってこの映画に食指が動く理由の一つになるのではないだろうか。僕もその一人だ。しかし、この映画を見るならばそれ相応の覚悟を持って劇場に向かうことをお勧めする。なぜならこの映画は言葉で直接情報を伝えてくれるわけでも、美しい音楽で感情を扇動してくれるわけでもないからだ。カトリック教会の中でも厳しい戒律で知られるグランド・シャルトルーズ修道院が撮影のために出した条件は、中に入るのは監督一人のみ、さらに音楽もナレーションも照明も使用しないことだった。
この条件が映画制作においてどれほど尋常でないことかは普段僕たちが見ている映画を思い出してみればすぐにわかる。要するに映画をつくるための通常のプロセスが禁じられてしまったのだ。
そして案の定というか実際のところ、この映画を見ることはいささか(かなり)骨が折れる。
確かに本来ならのぞくことが許されない修道士たちの生活や修道院の内部の映像はとても興味深いのだけど、結局のところ「彼らがそこで何をしているのか?」という興味に対する「説明」は観客に与えられない。この映画では通常観客たちを引きつける重要なファクターであるストーリーやシーンとシーンのつながりの脈絡のようなものはほとんど見受けられない。言葉も音楽もなくただ延々と修道院の内部と修道士の生活、そして周辺の景色がスクリーンに映し出される。正直に言ってしまうと僕は最初、この映画の異常なまでにストイックな演出に退屈すら感じていた。
しかしまさにこの映画が狙っているのは劇場にいる人間に修道士と同じ日常を体験させ、その沈黙と向き合わせることだ。この映画の後半、僕は少しだけ気づくことができた。彼らがそこでつくり出す沈黙。そこには人生をかけて神と向き合うことを覚悟した者たちの圧倒的な熱量が含まれていることを。「彼らがそこで何をしているのか?」それを説明によって理解させるのではなく、自分自身の体験として感じること。それがこの映画が観客にもたらしてくれるものだ。覚悟を持って彼らの沈黙と向き合ってみてはどうだろう。その先に、きっと何かが見えてくる。(タレント 篠山輝信/SANKEI EXPRESS)