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戦死100万人 若者が担う遺骨収集 ロシア ボルガ川

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戦死100万人 若者が担う遺骨収集 ロシア ボルガ川

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 【世界川物語】

 荒涼とした秋の大地に、何千ものモスグリーンのヘルメットが縦横に並ぶ。あるものは新聞紙大の盛り土の上に、あるものは真新しい墓石の上に-。ロシアの「母なる川」ボルガ川西岸の100万都市ボルゴグラードの郊外、ロッソシカにある旧ソ連兵の集団墓地で、兵士たちは今も隊列を組むかのように整然と眠る。

 第二次大戦で米英ソなど連合軍がドイツに勝利する転換点となった歴史的激戦、スターリングラード攻防戦の舞台の一角だ。「スターリンの都」を意味するスターリングラードは「ボルガ川の都」ボルゴグラードの旧名。市街戦が有名だが、郊外の戦闘も激烈だった。

 味方からも撃たれ

 墓地の向こうで、軍服のようなカーキ色の影が動いた。10代の若者たちが6人、野外で食事を取っていた。傍らに立て掛けてあるのは銃ではなく、スコップ。兵士たちの遺骨を探しているという。二千数百キロ離れた西シベリア北部ハントゥイマンシースク自治管区の田舎町からボランティア活動に来ていた。

 「戦争を終わらせるために来たんだ」。まだ幼さの残る顔立ちのパベル・ロンジン(15)がぽつぽつと話す。「最後の一人の兵士の遺体を見つけ、墓に入れた時、戦争が本当に終わる」

 6人は引率の大人とテントに寝泊まりし、自炊しながら毎日8時間ほど遺骨収集を行う。ソ連兵2人、ドイツ兵1人の遺骨を収容した。「ドイツ兵もかわいそうだと思う。自分の意思でここに来たわけじゃないから」

 カスピ海の油田とソ連主要部を結ぶ河川交通の要で重工業が盛んだった。その上、ソ連独裁者の名を頂くこの都市を落とそうと、ヒトラーは躍起になった。一方、スターリンやソ連軍司令官は「一歩も退くな」「ボルガの向こうにわれらの領土はない」とげきを飛ばし、背水の陣を敷く。対岸に逃れようとする兵士は味方からも撃たれた。

 ソ連時代は無関心

 ロシア国防省の戦没者顕彰部署はソ連軍の死者を47万8000人余りと指摘。ドイツなど枢軸国の被害はさらに甚大だったとされ、死者は双方で計100万人に達するとされる。ソ連の勝利で終わった戦いは、川とともに発展し川が退路を断つ構造の都市ゆえに起きた惨劇ともいえる。

 「これだけ死んだのに、戦死兵の墓はとても少ない」。ボルゴグラードの民間遺骨収集団の連合体「ポイスク」副代表のスベトラーナ・ペルブヒナ(30)は嘆く。ソ連当局は遺骨に関心を示さず、収集はソ連末期に民間レベルで始まった。さらに公的資金が投入されたのは1991年のソ連崩壊後だ。遺体を埋葬するロッソシカの墓石が新しいのはそのためだ。

 ポイスク創設は92年。以来、約2万5000柱を収集した。近年の愛国教育を追い風に、参加者の6割は30歳以下の若者だ。身元の分からない遺骨も多く、ロッソシカでも墓石に名前がないものや、イニシャルだけのものが目立つ。

 遺骨収集活動から、意外なことが見えてくる。遺骨発見を遺族に伝えた際、かなりの数の遺族が、兵士は戦死ではなく「行方不明」として扱われていたと明かした。「政治的理由で死者数が少なく公表されたのでは」と副代表は疑いを抱く。

 復活議論には冷淡

 「欧州各地にスターリングラードと名の付く道や広場がある。パリには地下鉄駅も。世界はスターリングラードを忘れない」。プーチン大統領は攻防戦勝利の日からまる70年の今年2月2日、ボルゴグラードでの式典でこう演説した。直前に同市議会は年6日の戦争関係の記念日限定で旧市名使用を承認。演説は「スターリンの都」復活やスターリン再評価の流れの黙認と受け止められた。

 「スターリングラード」が地図にあったのは1925~61年。その前は「皇帝の町」を意味するツァリーツィンで、56年のスターリン批判後に現市名に。前市名の復活を求めるロシア共産党の地元支部第1書記のニコライ・パルシン(41)は、現市名への変更は「(スターリンの死後に権力を握った)フルシチョフの独断で違法」と憤る。

 ただ、市民の多くは「恐怖政治を思い出す」「経済振興や道路整備が先だ」などと述べ、旧名復活議論には冷淡だ。2月の全国世論調査でも復活支持は23%だった。

 激動のロシア史に深く関わるボルガ川。攻防戦を今に伝える爆撃された旧製粉所や、17年のロシア革命からスターリン批判までの政治弾圧犠牲者を悼むソ連崩壊後に設置された碑が川面に影を落とす。

 そのそばを、ロシア経済回復で豊かになった市民が、穏やかな表情でそぞろ歩く。まるで戦争などなかったかのように。(敬称略、共同/SANKEI EXPRESS

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