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今も「奴隷」 リビングストンの夢半ば ザンビア ザンベジ川

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今も「奴隷」 リビングストンの夢半ば ザンビア ザンベジ川

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 【世界川物語】

 大地が寝静まった。風がやみ、月の光もない夜、土や草を固めた家々が闇に沈むと、庭の小さなたき火を前に、物語りが始まった。電気がない村に残る夜の習わしだ。

 「白人はわれわれを『サル』と呼んで、むちで打った」。ザンビア南部リビングストン市郊外のムカリ村の長老ロバート・シヤジボラ(85)は、1964年の独立まで支配した英国人に、自分たちがどう扱われたかを娘や孫たちに聞かせる。

 「だが、もっともっと昔、最初に来た白人、リビングストンは違った」。揺れる炎に合わせるように、しわがれ声が大きくなる。「聖書を持って現れ、神の道を説いた。黒人を差別しなかった」

 「ムナリ」と呼ばれ

 現在のザンビアとジンバブエの国境に沿って東に向かいインド洋に注ぐザンベジ川流域を探検していたデービッド・リビングストンが、この地にたどり着いたのは1855年のことだ。欧州人として初めて発見し当時の英国女王にちなみ「ビクトリア」と名付けた巨大な滝は今日、発展途上のザンビアを支える貴重な観光資源となっている。

 ムクニ村の村長スタンリー・シャチルビ(75)は「リビングストンを見た村の者たちはアラブの奴隷商人だと思って逃げ惑った」と言う。「やがて、村人たちは礼儀正しい彼を好きになった。日焼けした白人は少し黄色く見えたので、ムナリ(現地語でトウモロコシ)と呼ばれ親しまれた」。祖父から聞いた逸話だ。

 リビングストンは200年前の1813年、英北部グラスゴー郊外の貧家に生まれた。27歳で宣教師としてアフリカ南部に派遣され、布教の傍ら各地を探検。奴隷虐殺を目撃したのをきっかけに、奴隷貿易の廃絶運動に立ち上がる。

 情熱を注いだのがザンベジ川の水路開拓だ。孤立した内陸を沿岸と結ぶ交易ルートができて農業が育てば、村々が奴隷商人を排除する力を持つようになると説いた。スコットランド博物館によると、滝に女王の名を冠したのも、英国人の関心を奴隷貿易とこの地の開拓に向けるためだった。

 目的は探検ではない

 欧州の人々が“暗黒大陸”と恐れたアフリカ深部に踏み入り、生還したことで一躍、英雄となったリビングストンは58年2月、グラスゴー大で演説し「目的は探検ではない。はるかに崇高なことのためだ」と宣言する。

 英国は奴隷制を廃止していたが、米国では南部の綿花産業が奴隷労働を求めていた。リビングストンはアフリカ南部には「素晴らしい水系があり綿花が自生する地域がある」と強調、綿花産業を育て「英国が米国産綿花の購入をやめれば、奴隷制は終わる」と訴えた。

 ザンベジ川流域に続き、ナイル川の源流特定の探検に乗り出したが、73年、ザンビア北部でマラリアと赤痢を併発し死去する。以来140年、欧州諸国の手で開拓され、ザンビアは植民地時代を経て独立を達成した。希代の探検家が抱いた“夢”はかなったのか-。

 腹部の銃創

 「僕たちはまるで犬のように扱われていた」。銅鉱山の元作業員ビンセント・チェンジェラ(23)が、人目をはばかりながら、腹部の銃創を見せた。事件は2010年10月、リビングストン市から約200キロ下流のシナゾングウェにある中国資本経営の銅鉱山で起きた。待遇改善などを求めて事務所を取り囲んだ労働者に中国人2人が発砲、11人が重軽傷を負った。

 「犬小屋のような宿舎に押し込められ、安全ヘルメットも自費購入を強制される。そんな環境を僕らはなんとかしたかった」とチェンジェラは憤る。だが司法当局は中国人幹部の責任追及を断念、わずかな補償金が支払われ、幕が引かれた。

 弟の学費稼ぎのため400クワチャ(約8000円)の月給目当てに危険な職に就いたチェンジェラは、何度も中国人に罵倒されたという。「おまえらは奴隷だ。黙って働け」。他に職はない。屈辱に耐えた末に撃たれ、仕事は辞めた。

 ザンビアは観光業以外には銅、コバルト生産に頼る脆弱な経済構造のままだ。鉱物資源の開発も外国資本、特に資源供給源確保に熱心な中国の投資が頼りだ。同様の騒動が各地で起きる中、この事件の幕引きは、中国資本への政治的配慮が働いたと指摘される。

 チェンジェラが補償金を元手に始めた雑貨店は、鉱山から1キロほど離れた街道沿いにぽつりと立っていた。はだしの少女たちが、野菜や果物を買ってもらおうと、必死で車を追い掛ける。発展の夢からこぼれ落ちた風景。理想に生きた探検家リビングストンを知っているかと尋ねると、チェンジェラは申し訳なさそうに小さく首を横に振った。(敬称略、共同/SANKEI EXPRESS

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