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ザビエルの希望と失意 日本とのつながりも マレーシア マラッカ川

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ザビエルの希望と失意 日本とのつながりも マレーシア マラッカ川

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 【世界川物語】

 朝からの雷雨がようやくやみ、赤道近くの強い日差しが照り付ける中をセントポールの丘に登った。煙霧が消え、マラッカ海峡や対岸のスマトラ島がくっきりと浮かぶ。

 欧州列強や日本に相次いで占領されたマレーシアの古都マラッカ。1547年、1人の聖人がマラッカ川を見下ろすこの丘で、まだ見ぬ東方の国に思いをはせていた。目の前では薩摩(鹿児島県)出身の男がひざまずき、片言のポルトガル語で日本や日本人の姿を熱心に説明していた。

 ヤジローと出会い

 「ここは宣教師フランシスコ・ザビエルが日本行きを決めた歴史的な場所だ。キリスト教の宣教師と日本人が初めて触れ合った時でもある」。敬虔(けいけん)なカトリック教徒で歴史家のマイケル・チン(76)が丘にあるセントポール教会の跡で穏やかに語り出した。

 男の名はヤジロー(別名アンジロー)。殺人を犯し、当時日本との交易が始まったポルトガル船でマラッカに逃れた。そこで出会ったザビエルに罪を告白、後にカトリックに改宗した。武士との説もあるが、本名も職業も謎だ。

 ザビエルは、出会いから2年後、ヤジローを伴って鹿児島を訪ね、日本にキリスト教を広めた。

 インドを拠点にしていたザビエルは1545年、マラッカ川の河口に初めて下り立った。ポルトガルがイスラムのマラッカ王国を破った後だ。

 貿易風を利用して、帆船がインド洋や南シナ海を往来できる利点が注目され、マラッカは東西文明の十字路として列強が押し寄せる布教と東方交易の「最前線」だった。

 マレー半島で産出された香辛料や木材が、約40キロのマラッカ川を舟で下って運ばれた。

 中国上陸目前で死去

 中国、中東、ポルトガル、インド、東南アジア…。チンは「半島の『富』を運んだマラッカ川の河口や沖合には、多くの交易船が集った」と往時のにぎわいを話す。

 布教に生涯をささげたザビエルにとって、マラッカは希望の地だったが、失意も味わった。

 マラッカの司令官や司祭との確執で再三嫌がらせを受け、布教に使う船の調達に苦労したこともある。中国での布教を目指しながら本土上陸目前で死去。遺体は、セントポールの丘の上に一時安置された。

 「聖人の死を悼む多くの人が、川沿いから丘に並び遺体を見送った」。チンはそう言うと、胸の前で十字を切った。

 ポルトガルの後は、オランダ、英国が進出、町は幅数十メートルのマラッカ川の河口沿いに発展した。英国占領後、貿易の拠点はシンガポールに移り、活気は衰えた。

 「皮肉だが、そのおかげでかつての国際都市の面影が残った」とチン。マラッカ川を中心にしたわずか1キロ四方に、カトリックやプロテスタントの教会、仏教寺院、モスク(イスラム礼拝所)がひしめく。

 「マレーシアはイスラム教国だが、マラッカには多民族、多宗教の寛容さがある」

 こう話すのは、父方の祖先がイラク出身のイスラム教徒の地区長ザカリア・シャウカタリ(61)だ。父はインド系のスパイス商人で母はマレー系。住民の結婚式は「出身民族の伝統を生かしつつ、壁を取り払って皆で祝う」と胸を張った。

 苦難も平和の歩みも

 旧市街から約1キロ離れた公園に慰霊碑が建てられていた。旧日本軍がマラッカを占領した太平洋戦争で犠牲になった中華系住民を祭った碑だ。

 当時、小学生だったチンの脳裏を今も離れないのは「日本兵が銃剣で住民をたびたび押し倒した姿だ」。地元の男の多くは、日本軍がタイとビルマ(現ミャンマー)をつないだ泰緬鉄道の建設に駆り出され、大半が生きて戻ることはなかった。

 「富士山」の唱歌を日本語で口ずさむチンに、ザビエルが生きていたら日本軍に何を訴えたのだろうか、と尋ねてみた。

 「アジア解放を主張したのに『なぜ地元の人々を虐げるのか』と。きっとこう諭したはずだ」

 チンの表情が一瞬厳しくなり、しばらくして穏やかな表情に戻った。「あの苦難を私たちは忘れない。でも戦後、平和を志向した日本の歩みも忘れない。(戦争のことは)もう許している」

 川のほとりの聖フランシスコ・ザビエル教会に7年前、ザビエル像とヤジロー像が並んで建立された。ザビエル生誕500年を記念した鹿児島県マレイシア友好協会などの発案で、マラッカで尽力したのがチンだった。

 夕暮れが迫ってきた。海を制した男たちの末裔が教会で1人、祈りをささげている。外ではイスラム教徒に礼拝を呼び掛けるアザーンの大音響が町を包んでいた。(敬称略、共同/SANKEI EXPRESS

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