74年前の1941(昭和16)年12月8日未明(現地時間7日朝)、米ハワイ・オアフ島の北約320キロに展開する日本の連合艦隊から、爆撃機や戦闘機約200機が発艦した。目標は真珠湾の基地と米太平洋艦隊。
午前7時52分、真珠湾上空に到着した空襲部隊の淵田美津雄総指揮官から空母「赤城」に向けて「トラ・トラ・トラ」(ワレ奇襲ニ成功セリ)が打電された。55分、フォード島の米海軍の6番格納庫への爆撃を皮切りに真珠湾攻撃が始まった。
第1波、第2波合わせて、約350機が縦横無尽に真珠湾上空を飛び回り、艦船や航空機数百機、格納庫、滑走路などを破壊、2時間に及ぶ「真珠湾攻撃」が終了、対米戦争に突入した。
フォード島の米海軍54番格納庫で飛行艇カタリナの乗組員として勤務していた20歳だったディック・ジラコさん(93)は、真珠湾攻撃の当日のことを鮮明に記憶している。「あの日は澄み切った青空の中、無数の飛行機が空を覆うように飛んできた。急旋回した翼の下に日の丸が見えたときに、パニックになった。飛行帽やゴーグルがはっきりと見えるほど近くを飛んでいった。パイロットと目があったが人は狙わなかった。日本軍は卓越した飛行技術と完璧な作戦で、滑走路や艦船、航空機を徹底して攻撃して去った」。この攻撃による死者は、米兵ら2000人超とされる。