気がついたら、富士山にレンズを向けていた。あの美しい姿は、僕でなくとも誰もが撮りたくなるに違いない。葛飾北斎の富嶽三十六景を引き合いに出すまでもなく、多くの人々が富士山の姿に魅せられ、心の風景としてきた。
その愛(め)で方もさまざまで、光や雲の具合により「赤富士」「黒富士」「傘富士」などの愛称があるし、地方を旅すれば「津軽富士」「讃岐富士」など、地域の山々に見立てた名前がつけられている。江戸時代には富士信仰の一種である冨士講が隆盛し、関東を中心に広まった。今でも富士山の神を祀(まつ)った富士塚や、「富士見坂」など富士山を冠した地名が残っている。
しかし昨年まで僕は、富士山に登ったことがなかった。仕事で山梨や静岡に行けば、つねに富士山の方角を確認し、黄昏時に高層ビルから望むシルエットを目に焼き付ける。ただやはり、富士山に登ることはなかった。どうしても気になる、目に飛び込んでくる存在であるにもかかわらず、である。それは富士山の魅力は造形美にあり、その懐に飛び込むのに気が進まなかったからだ。道行きの発見より、富士山は登頂したときの達成感の方が勝りそうだと遠ざけていたのだが、それは杞憂(きゆう)にすぎなかった。