大御心の柔らかみ
野口裕之の軍事情勢大東亜戦争(1941~45年)を終結させるにあたり《国体護持》を貫いた歴史は、わが国近代史における最大の国難回避であったと思っている。70年後。激戦地パラオ共和国ぺリリュー島に行幸啓された天皇・皇后両陛下が発せられた、言葉では到底表し尽くせぬ御力は、大日本帝國陸海軍の退役軍人と遺族、現地の人々を柔らかく包み込んだ。退役軍人の一人は民放テレビの取材に、申し上げようと思っていたことはたくさん有ったが、お礼言上が精いっぱいだったとの趣旨を語っていた。一部メディアは「(悲惨な)戦争当時の話は触れたくなかった」といった内容を、答えとして引き出した。否定はしない。時間は限られていた。緊張もしていたはず。しかし、最大の背景ではなかろう。ぺリリュー島行幸啓に限らず、両陛下の御心に接する国民の多くが言葉を控える。「空間の共有」だと感ずる。今次も、両陛下との間で深い悲しみの空間を共有し、それ以上言葉を必要としなかったのではないか。一点の曇り=私心なき大御心は、歴代天皇と同じく国民の心を優しく、だが激しく揺さぶるのだ。陛下と国民の間に修辞は必要ない。そうでなければ、極めて短い会話の後「長い間にわたり、われわれ遺族以上に、散華された方々を思ってくださっていたのが分かった」という気持ちにはなれない。
パラオ入りしていない小欄が畏れ多き事柄に触れるのは、九州在住の友人に聴いた逸話で、先帝(昭和天皇)陛下が背負い続けられた深い悲しみと苦しみ、国民に寄り添う立ち位置をあらためて知ったことにも因る。住職・調寛雅(しらべ・かんが)氏の著書《天皇さまが泣いてござった=教育社》に詳しいが、そのお姿は刻苦を正面から引き受ける修行僧のようでもある。
先帝陛下、御行幸での涙
先帝陛下は昭和24(1949)年、佐賀県に行幸あそばされた。敗戦で虚脱した国民を励まされる全国御巡幸の一環で、ご希望により因通寺に足を運ばれた。寺では境内に孤児院を造り、戦災孤児40人を養っていた。陛下は部屋ごとに足を止め、子供たちに笑みをたたえながら腰をかがめて会釈し、声を掛けて回られた。ところが、最後の部屋では身じろぎもせず、厳しい尊顔になる。一点を凝視し、お尋ねになった。
「お父さん、お母さん?」
少女は2基の位牌を抱きしめていた。少女は陛下のご下問に「はい」と答えた。大きく頷かれた陛下は「どこで?」と、たたみ掛けられた。
「父は満ソ国境で名誉の戦死をしました。母は引き揚げ途中、病のために亡くなりました」
「お寂しい?」と質された。少女は語り始めた。
「いいえ、寂しいことはありません。私は仏の子です。仏の子は、亡くなったお父さんともお母さんとも、お浄土に行ったら、きっとまた会うことができるのです。お父さんに、お母さんに会いたいと思うとき、御仏様の前に座ります。そして、そっとお父さんの、そっとお母さんの、名前を呼びます。するとお父さんも、お母さんも私の側にやってきて抱いてくれます。だから、寂しいことはありません。私は仏の子供です」
陛下は少女の頭を撫で「仏の子はお幸せね。これからも立派に育っておくれよ」と仰せられた。見れば、陛下の涙が畳を濡らしている。少女は、小声で「お父さん」と囁いた。陛下は深く深くうなずかれた。
共産主義者の一団も嗚咽
側近も同行記者も皆肩を震わせた。ただ単に、けなげに生きる少女への感動の涙と片付けてはならない。少女の悲しみは陛下の悲しみだった。愛する肉親を失った国民。国民の眼前に広がり心を蝕む敗戦に因る焼け野原=廃虚と飢餓。全てに絶望する国民の虚脱…。国民の苦しみは陛下の苦しみであった。
陛下の悲しみ・苦しみを、側近や記者は能く理解していた。御巡幸は昭和21~29年まで、真夏や雪降る中、時には手当がつかず列車や学校の教室に泊まられながら続いた。お立ち寄り先は米国施政下の沖縄を除く全都道府県1400カ所以上、全行程は3万3000キロ。奉迎者は数千万人に達するが、困窮の実情など一様に具体的だったご下問に「宮中でのご不自由な生活」を直感し、恐縮する。ここに陛下と国民は悲しみ・苦しみを一層共有するに至る。慰め励まされ、勇気を頂いた国民は、戦後の奇跡的復興へのエネルギーを蓄え、やがて社会で発揮していく。
実は孤児に接する前、陛下にお迎えの言葉を言上した知事が、嗚咽で言葉を詰まらせていた。側で見て「不覚をとるまい」と肚を据えた住職も落涙した。そればかりか、ソ連に洗脳されたシベリア抑留帰りの過激な共産主義者の一団まで声をあげて泣いた。彼らは害意をもって参列していた。
皆、陛下のご心中を察しつつ、その温かみに感極まったのだ。自らの戦中・戦後も重ね合ったに違いない。諸外国にも権威や権力は数多存在するが、かくも濃厚な空間の内側で国民とつながっている国体は、ほぼ皆無であろう。
自然な「天皇陛下万歳!」
ところで、因通寺慰問を終えられた先帝陛下が御料車に乗り込まれる際、孤児たちは陛下の洋服の端をしっかりと握り「又来て…」とニッコリ。陛下は「今度はお母さんと一緒に来るよ」と応じられた。この逸話に「陛下は完全復興後も中々、スーツの新調をお許しにならない」との、先帝陛下のお側近くに仕えていた人物の証言が蘇った。最も長くお召しになったスーツは確か「28年間」と聴いたが、あまりに長期間で記憶に自信が持てなくなっている。だが、民の竈より煙が立ち上らぬ様子に、貧しくて炊くものがない…と痛みを感じ、税を免じ、荒れ果てた宮殿の修理もお許しにならなかった仁徳天皇も、衣の新調を躊躇われた。「28年間」は記憶の通りだろう。
仁徳天皇と先帝陛下の御心が重なるが、今上陛下も先帝陛下の歩まれた道のりをたどられている。東日本大震災(2011年)後、天皇・皇后両陛下は福島県を度々行幸啓なさった。全国御巡幸で、先帝陛下も福島県の常磐炭鉱を行幸。地下深き灼熱の坑内をスーツ姿で回り、半裸の男たちを激励された。「天皇陛下万歳!」は、ここでも極極自然に起こった。
皇統を取り去ったら、日本に何が残るのか…。(政治部専門委員 野口裕之/SANKEI EXPRESS)
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