定石は“やりすぎ”によって覆される
飲食店の原価だけでなく、人間の行動にも「相場」がある。しかし、彼はいちいち、思いの丈が相場より「過剰」だ。脂身を食べ旨さに言葉を失い、遊びに溺れたと思ったら生まれ変わり、ひとたび謝ると決めれば会見時間を延ばし頭を下げ続ける。
そして実は、この過剰さこそが、彼の成功の理由だった。
時代は平成20年代に移り、日本は豊かになり、人は「その次」を求めていた。そんな中、彼は立ち食いの「俺のフレンチ」「俺のイタリアン」(運営は、俺の)で知られる坂本孝社長と話した。その瞬間、彼はこう考えた。
「立ち食いで、ステーキ、出せないかなぁ」
相場で言えば無理だった。だが、相場や常識は、過剰さによって破られる。日本人の食生活は、彼がビーフステーキの脂身を食べ、言葉を失った頃と一変していた。現在のビジネスパーソンは、お金があっても時間がなく「パッとステーキを食べたい」ニーズはあるはずだった。また生活スタイルが多様化し「一人焼肉」「炭水化物抜きダイエット」といったニーズも生まれていた。彼は冒頭のように、家賃や原価を弾いた。計算上は、成り立った。
ただし、ビジネスは最後は「賭け」。常識人なら「とまあ、そんな考えもあるよね」と電卓を置いたかもしれない。しかし、彼には過剰な思いがあった。
「やった理由って、いろいろあるけど、その最たるものは店にでっかく書いてありますよ。『炭焼きステーキは厚切りでレアーで召しあがれ!』って。旨いものを腹いっぱい食べるって、誰もが幸せを感じる瞬間じゃないですか。その瞬間を、僕は作りたかったんですよ」
腹いっぱい食べてもらい「格別だったよ」と誉めてほしい! 人生、できる限りのことをしなきゃいけない! 逃げちゃダメだ! それが「経営者」なんだ! もう「もっと優しくしておけばよかった」と後悔したくない!
もちろん、飲食業者にとって、一等地・銀座に店を出す数千万円は巨額だ。利益は1割。数億円売り上げてようやく捻出できる金額だ。でも「当たり前」は「過剰な思い」によって覆されるはず。ロジックは成り立っている。ならば、やるしかない! そう彼は決断した。
そして、2013年12月5日。彼は銀座の店に長蛇の列ができるのを見た。報道が一巡してもお客さんは去らない。時代は彼を受け入れたのだ。
一瀬氏はこの経緯を彼らしい言葉で振り返る。
「うれしいことはいっぱいあるよ。僕は母に『邦夫、コックになるんだったら、日本で5本の指に入るんだよ』と言われてた。それに匹敵することは達成できたかな、と思うと格別にうれしいんですよね」
そう、世にはびこる「当たり前」は、こんな情熱、過剰な思いによってのみ打ち破られるのかもしれない。そもそも冒頭の計算は、電卓があれば誰でも1分もかからずできる。だが、これを実現できたのは--。
「聞いてくださいよ。母は、僕にこんな言葉を残してくれたんです」
取材中、そう言ってスマホを取りだし、目を赤くしながら音声再生ボタンを押す。いつも「過剰な」社長、一瀬邦夫氏だった。
■夏目人生法則 1972年、愛知県生まれ。早稲田大学卒業後、広告代理店入社。退職後、経済ジャーナリストに。現在は業務提携コンサルタントとして異業種の企業を結びつけ、新商品/新サービスの開発も行う。著書は『掟破りの成功法則』(PHP研究所)、『ニッポン「もの物語」』(講談社)など多数。