杉野さんが30歳のとき、大黒柱の父親が亡くなった。高名な技術者である父に勝るとも劣らない知識と技術を身につけようと、「毎日、睡眠時間4時間で猛勉強にあけくれた」。材料メーカーの製品発表会に出かけ、強引にサンプルをもらって分析し、発表データに誤りがあれば公然と指摘するなど業界内で煙たがられたこともあった
しかし、捨てる神あれば拾う神ありで「私のことを面白いヤツだとかわいがってくださる方が出てきた。分析データが正しいので大手メーカーの技術者とも仲良くなった」と、2代目としての修業時代を振り返る。
技術者の世界は一見、他人に厳しく映るが、懐に入ると親切に教えるところは教えてくれるし、刺激し合える関係にもなる。それが「日本の強さになっているのではないか」と杉野さんは語る。
杉野ゴム化学工業所は業容を拡大し、一時は従業員も30人まで増えた。ただ、何度かの円高でゴム部品を必要とする家電や自動車企業が海外に進出したのにともない、中国・大連に製造拠点を移した。本社だけが日本に残り、開発中心の仕事を専門にしている。
同業者の勉強会から
東京・葛飾区は古くからゴム関連工業が集積し、最盛期に500社のゴムメーカーがあった。倒産や廃業で中小メーカーは減少し、今や稼働する会社は200社ほどになってしまった。