こうした全体像への執拗な追求は、祖父の影響もあるかもしれないと彼女は思う。第二次世界大戦中、アウシュヴィッツに収容されたが生還。1950年代以降、科学や人文系のアカデミックな出版物のディレクターとして活躍した。戦時中、ユダヤ人として大学教育を受けられなかった祖父は、アクセスしがたい知に多くの人がアクセスできるようなシステムを創ることに生きたのである。
次の世代である父親も作家としてさまざまに意見を表現する立場にあった。だが、祖父ほどには共産主義社会を理想モデルとは思えなかった。しかし、スマートにポジションをとっていた。
「いくつかの解釈を含んだ物言いをできる人なの」(サーラ)
このような知的洗練さを重んじる本に囲まれた家庭環境で育ったサーラは、ファッションモデルを経て、その経験をもとに大学で学びたいと考えるようになった。心理学、マーケティング、デザインなどを修士までに学び、ラグジュアリーをテーマとした博士論文を書いた。
ところで、サーラが初めて雑誌の表紙を飾ったのはまだ3歳の時だ。1989年のハンガリーにファッション雑誌がなかったが、自ら裁縫をする女性向けの雑誌はあった。それに母親と載ったのである。
「それから10数年後に私はモデルとして働きはじめたのだけど、両親はファッション雑誌やモデルがどういうものなのか、よく知らなかったの」
父親は思索を好む人だが娘にはスポーツを強く勧め、一方、母親はとても活発な行動派だが、女性はスポーツのような余計なことをしなくて良いと言うタイプだった。
「『女性はケーキを前にテラスに座っていればいいの』とプリマ・ドンナのようなことをママはいうわけよ」と笑うサーラは、結局、子どものときにスポーツに励むことはなかった。