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【軍事情勢】ドイツ-アルゼンチンをつなぐ移民・戦犯・W杯

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【軍事情勢】ドイツ-アルゼンチンをつなぐ移民・戦犯・W杯

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サッカーW杯決勝で、アルゼンチンのメッシ選手(10)を取り囲むドイツの選手たち。W杯決勝で史上最多の3回対戦した独亜両国は、歴史的にも浅からぬ縁がある=リオデジャネイロ(共同)  サッカーW杯は14日、ドイツがアルゼンチン(亜)を下し優勝したが、ネット上ではファンによる亜選手の「戦犯」探しが始まっていた。しかし、安全保障が生業の小欄にとり、独亜に戦犯とくれば、アルゼンチンに10年も潜伏したナチス親衛隊のアドルフ・アイヒマン中佐(1906~62年)が浮かぶ。

 《ユダヤ人問題の最終解決》計画を担った一人。ホロコースト=大量虐殺に際し、数百万のユダヤ人を強制収容所に移送した指揮者と言い換えても良い。1962年、イスラエルで行われた絞首刑直前に「独万歳、亜万歳、オーストリア(墺)万歳。私と三国は最も親しく結び付いていた」と叫んだ。アルゼンチン潜伏に加え独生まれ。母は墺系で、少年時代をオーストリアで過ごし、墺勤務を経験した人生が「万歳」の対象となったのだ。もっともアイヒマンが万歳せずとも、併合で同じ国となった独墺は無論、独亜にも軍事や移民での濃厚なつながりが認められる。

 ナチス関係者が多数潜伏

 アルゼンチンに潜伏したナチス関係者は少なくない。アイヒマンがアルゼンチンに上陸した50年、大統領はファン・ドミンゴ・ペロン(1895~1974年)だった。

 陸軍士官学校教授時代のペロンは日露戦争(1904~05年)を研究。大日本帝國の勝因が、独北部などに存在した国家・プロシアの陸軍より師団制などの軍制や戦術・作戦を学んだ点にもあったことで、工業化と国民統合を強力に推進したドイツによる総力戦思想に傾倒する。第二次世界大戦中の1939~41年までイタリア駐在武官だったことも手伝い、帰国後は親枢軸国将校団を組織する。従って、終戦翌年の46年に大統領に当選すると、独系戦犯を匿い軍や治安当局の育成に当たらせた。

 戦犯以外にも、対空砲火で30回撃墜されながら生還し、ソ連軍戦車・装甲車など1300輌以上を空から破壊した独空軍の英雄ハンス・ウルリッヒ・ルーデル大佐(1916~82年)らが亜政府に招かれた。ソ連軍が今の価値にして1億円近い懸賞金をかけ「一人で一個師団分の働き」と称讃されたルーデルは、アルゼンチンで航空機の研究・生産に関わり、空軍士官学校で操縦や急降下爆撃戦法を教えた。

 このほか、独空軍の中将や大佐、戦闘機メーカーの主任技師らが亜入り。ルーデルらは契約後帰国したが、定住し財を成した将校さえいた。

 確かにルーデルとペロンは親しい友となるが、ペロンが抱いた親独感情だけで独亜接近を論ずるのは乱暴に過ぎる。既に大戦前の38年、アルゼンチンには、ナチスの政権掌握(33年)を懸念し脱出した知識層やユダヤ人も含め、23万6000人もの独系移民が居住。独向け貿易はじめ鉱工業や建設・不動産、運輸など幅広い分野に進出し、力を持っていた。主要移民の一角を占めた日系7000人と比べても独系の多さがわかる。

 アルゼンチンは移民立国政策を採っており、定住は日独系だけではない。もともと、中立外交路線を歩む傾向のアルゼンチンではあったが、大戦勃発後も中立路線は続く。移民の母国は枢軸国/中立国/連合国に分かれ、各極の影響で国論も分裂、均衡を保つ必要があったこと。急速に成長した農牧産品輸出の相手国として、いずれの極とも関係を維持していきたい理由も有った。

 遅かった宣戦布告

 一方「裏庭」である中南米を絶対防衛圏と考える米国の圧力で、ブラジルやメキシコ、ペルーやチリが次々に枢軸国との国交断絶や宣戦布告を断行。米国はアルゼンチンを「ナチズムの砦」と非難した。

 アルゼンチンが国交断絶に踏み切るのは終戦前年の44年。ところが、国内の枢軸国派と連合国派の確執で政権は崩壊する。ペロンが副大統領となり実権を握るのはこの時。宣戦布告は枢軸国敗戦が迫り、国連という戦後国際秩序構築の青写真が出来上がっていた大戦最終年の45年、しかも3月下旬になってだった。

 以上からも、ドイツやイタリアで逃亡生活を送っていたアイヒマンは、アルゼンチンを格好の隠れ蓑だと確信していたことは疑いない。亜入国後は独系企業やウサギ飼育に従事。その間の52年に家族を呼び寄せた。

 イスラエルのモサド=諜報特務庁では地球規模で「ナチ逃亡戦犯狩り」を行っていた。ユダヤ系独人の情報で、アイヒマンがアルゼンチンにいる可能性を疑ったモサドは57年「リカルド・クレメント」という男の24時間監視を始めた。だが、決め手に欠けた。

 悪魔にしては小心翼々として用心深いこの男は60年3月21日、花束を買う。25回目の結婚記念日だった。モサドはクレメント=アイヒマンと確信した。モサド工作員はアイヒマンを薬物で眠らせ、偽装を施し、亜独立記念日式典に参加したイスラエル政府関係者の帰国用国営航空機に乗せた。亜情報機関はクレメントの正体を知っていたようだが、黙認したのか、間隙を突かれたのかは判然とせぬ。

 縁浅からぬ地で抑留

 ところで、サッカーの独代表は15日、祖国に凱旋。無数の独国旗はためく中、40万人以上の祝福を受けたが、国旗を体に巻き付けた選手は印象的だった。大戦劈頭の39年、滞在先のアルゼンチンにおいて軍艦旗を身にまとい拳銃自決した独海軍士官がいた。ハンス・ラングスドルフ大佐(1894~1939年)。英国艦隊と交戦し、自艦が継戦能力を失ったため、当時中立国だったウルグアイの港に退避した。だが、英艦隊に港湾封鎖を受け自沈させる。乗組員を収容したのが、まだ中立を掲げていたアルゼンチンの海防艦だった。大佐の妻宛遺書にはこうある。

 《名誉を重んじる指揮官なら艦と運命を共にするが、部下の安全確保に奔走すべく、決断を先延ばしにした》

 最期に体を包んだ軍艦旗は、ナチス・ドイツの国旗・ハーケンクロイツ=逆鉤十字をあしらっていない独帝国海軍時代のそれだった。敬虔なキリスト教信者だった大佐はナチスを嫌がった。葬儀には地元の独人や亜国民が大勢参加した。

 結局亜政府は、大佐の希望だった乗組員の本国送還を却下し抑留した。ただ、乗組員はアルゼンチンという縁浅からぬ地で比較的温かい抑留生活を送ったと思っている。大佐を「臆病者」と罵り、遺族にも十分な年金を与えなかったアドルフ・ヒトラー総統(1889~1945年)の仕打ちとは対照的に。(政治部専門委員 野口裕之)

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