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【軍事情勢】ネルー印首相の命縮めた中国「対話と協調」戦略

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【軍事情勢】ネルー印首相の命縮めた中国「対話と協調」戦略

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印中両軍が国境で武力衝突した1959年9月、この年インドに亡命したダライ・ラマ14世(左)と話すネルー印首相=ニューデリー(AP)  中国と条約締結や協議をするときの要諦は健康ではないか。防衛相訪中にあたり、随員候補が甲乙付け難い場合、酒豪を帯同する。度数の高い酒で、倒れる寸前まで「乾杯!」を繰り返す“熱烈歓迎”から大臣を「防衛」するためだ。

 翌朝、ホテルの部屋で倒れていた自衛官も実在する。だが、二日酔いより心臓麻痺が断然怖い。小欄は、インドの初代首相ジャワハルラール・ネルー(1889~1964年)が心臓麻痺で亡くなった原因の一つは、後述するが、中国の計算され尽くした謀略だったと信じている。もっとも、謀略でなくとも、彼の国の非常識には心臓麻痺を起こしそうになる。

 CIC視察希望の非常識

 印英字紙ザ・ヒンドゥー(電子版)が4月に報じた中国海軍総司令官・呉勝利大将(68)の行動は正気とは思えなかった。呉大将ら中国軍一行は、青島(チンタオ)寄港中の印海軍ミサイル・フリゲートを訪問。その際、随員が「(絶大な権力を持つ)共産党中央軍事委員会委員でもある呉大将が《CIC=戦闘指揮所》視察を熱心に希望されている」と、許可を要求したという。有り得ない話だ。

 CICはレーダーやソナー、通信、被弾損害情報などが集約される戦闘情報中枢であり指揮・命令中枢。乗員ですら立ち入りが著しく限られる。

 接遇した印海軍艦長は驚く以前に「???」だったはず。同盟国の将軍でも入室への敷居が極めて高いCIC。まして、過去に幾度も干戈を交え、今尚国境紛争を抱え、核ミサイルの発射を視野に入れる、仮想敵に対する要求ではない。一呼吸置いて、われに返ったであろう艦長は「部外者には非公開」と応じ、お引き取り願った。

 軍艦は国際法上、大使館同様、中国領内に在っても治外法権で、呉大将らの退艦は至極当然。しかし、順法精神をほとんど持ち合わせない中国に、国際法順守は似合わない。むしろ、見学を拒否した印側の常識にキレて、居丈高に再考を迫る非常識こそが“中華風”だ。

 実際、シンガポールで開かれたアジア安全保障会議で1日、中国軍副総参謀長の王冠中・陸軍中将(61)が行った演説も“中華風”の臭いがきつかった。安倍晋三首相(59)は5月30日の基調講演で、南シナ海でのベトナム/フィリピンと中国の領有権争いに「力による現状変更の試み」があると述べ、名指しを避けつつ中国に国際法順守を求めた。米国のチャック・ヘーゲル国防長官(67)は翌31日、名指しで非難した。キレた王中将は、予定稿以上に強く“中華風”に味付けた主張を展開した。曰く-

 「領土の主権、海の境界設定で問題は一度も起こしていない」「領土・主権・海洋権益の争いを適切に処理している」

 会議最終日で疲れが蓄積した参加国の国防相らは、三流コメディアンの話を聴くがごとく、笑えないストレスを感じたかもしれない。ただし、呉中将が「対話と協調を掲げる」と何度目かのウソを放言した直後、小欄同様、印代表団の警戒感は頂点に達したに相違あるまい。

 「廉潔」こそが格好の標的

 冒頭で触れたネルーは「対話と協調」で殺されたに等しい。ネルーを「高い理想」と「廉潔」の持ち主だと評する向きは少なくない。だが「高い理想」「廉潔」こそが、中国の格好の標的と成る。ネルーが心臓麻痺に至る道筋をたどる。

 死への一里塚は1954年6月、ネルーと中国の周恩来首相(1898~1976年)との共同声明だった。声明は、2カ月前に締結された《インドとチベット間の印中通商・交通協定》の前文がベース。即ち(1)領土・主権の相互尊重(2)相互不可侵(3)相互内政不干渉(4)平等互恵(5)平和共存-をうたった《平和5原則》。

 ネルーの狙いは、朝鮮戦争(1950~53年、休戦)の混乱に紛れチベット侵攻の残虐度を上げた中国との「対話と協調」にあった。大東亜戦争(41~45年)によりアジアから欧米列強を駆逐したにもかかわらず、チベット問題を契機に再び列強がアジアに介入する、冷戦のアジア飛び火を憂慮。5原則を軸に印中間での解決を目指したのだ。

 想像上の環境に住む愚

 ネルーは56年、チベット仏教最高指導者ダライ・ラマ14世(78)を仏陀生誕2500年祭に招いた。反対する中国を、ダライ・ラマの「自由な訪印を喧伝すれば中国にも有益」と説得、招待を実現させた。ダライ・ラマはネルーや訪印した周と会談を重ね、インドへの亡命やチベット人大虐殺停止などを訴えた。周が善処を“確約”したことで、ネルーはダライ・ラマの亡命を拒み帰国を促した。

 ところが、チベット人蜂起を受けた59年3月のダライ・ラマの印亡命→チベット臨時政府樹立を機に印中国境で9月、両軍が武力衝突。62年には中国軍8万が奇襲・侵攻し、印軍1万は戦死・行方不明3000/捕虜4000を出す大敗北を喫する。

 ネルーの完全な読み誤りであった。実のところネルーは、印中国境線に関し、印政府に先手先手で画定を表明させ、その後に予想される中国側の非軍事=外交上の抗議に備えていた。平和5原則を最大限利用して、国境画定交渉の風上に立たんと欲したのだ。

 甘い、と言わざるを得ない。そもそも印中は、中国軍がチベット中央部を侵攻した50年以降きな臭い関係が続く。ただ当時、中国は建国1年目で軍の創建期だった。従って、54年の平和5原則で時間を稼ぎ→59年の武力衝突でさらに牽制しながら軍事的な手応えをつかみ→優位を確信するや周到な準備を経て62年、本格的に侵攻した-のである。5原則を最大限利用したのは中国側で、しかも米国とソ連が核戦争手前まで至る《キューバ危機》に世界の耳目がくぎ付けの渦中での侵攻という、絶妙な時機が選ばれた。

 ネルーはわずか1年半後の64年(首相在任中)失意のうちに亡くなる。社会主義的な計画経済の行き詰まりが死を早めた部分もあるが、ネルーは中国軍の奇襲直後にこう漏している。

 《現代世界の現実に疎くなり始め、自分たちで勝手に作り上げた想像上の環境の中に住んでいたことを思い知らされた》

 反戦平和/平和憲法=第9条/集団的自衛権=戦争する権利…。日本が《勝手に作り上げた想像上の環境の中に住んでいる》愚を《思い知らされる》のは、中国がわが国領土を占領して後のことになるのだろうか。(政治部専門委員 野口裕之)

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