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フィリピン残留2世の国籍回復へ誓い新たに

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フィリピン残留2世の国籍回復へ誓い新たに

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 【ソーシャル・イノベーションの現場から】

 「私は日本人。生きているうちに認めてほしい」

 8月7日に日本国籍の取得を目的に一時帰国したフィリピンのケソン市で暮らすウエハラ・ホビータさん(67)は成田空港で記者団を前にこう訴えた。日本人でありながら日本人と認められないフィリピン残留日本人2世の切なる願いだ。戦後68年が経った現在も戦争被害者の救済は終わっていない。

 フィリピン残留日本人2世の多くは、19世紀末から太平洋戦争終結までにフィリピンに移住した日本人の父とフィリピン人の母の間に生まれた子供である。当時の法律では、父親の国籍を子供も受け継ぐ父系血統主義が取られており、2世は間違いなくフィリピン生まれの「日本人」であった。

 戦争によって一家離散

 しかし、太平洋戦争の激化に伴い、フィリピンでの穏やかで豊かな生活は一変し、父は軍属として徴用され戦争へ。母子は生き延びるためジャングルを逃げ回る日々が続いた。まさに戦争によって一家離散を余儀なくされ、異国の地で築いた幸せな家庭は崩壊させられた。父あるいあは両親を戦争で失ったり、父だけが日本に強制送還されたケースは多い。

 さらに2世を苦しめたのが、終戦後の反日感情が渦巻く日々であった。日本はフィリピンを占領し、戦争に巻き込んだ国と敵視され、2世は差別や迫害の対象となった。日本人であることを隠すため、出生証明書や両親の婚姻証明書など日本人である証を自ら破棄することで、生き延びることを選んだ。まさに苦渋の決断であった。こうした結果、無国籍を余儀なくされたのである。

 69歳の木村ロヘリオ(日本名・マサオ)さんは「国籍がないために、海外で働くことができなかった」と、悲痛な思いを口にした。「戦争が終わったことを知らずに1年くらいジャングルに隠れていた」と、辛かった子供時代を振り返るのは、79歳のカトウ・イニア(日本名・信子)さんだ。

 父親の身元が分からなかったり、名前と出身地がわかっていても証明できなかったりした2世は、約900人いたといわれている。

 父の故郷に思いをはせ、自らのアイデンティティーを確立したいと願うフィリピン残留日本人2世の思いに応えようと、フィリピン日系人リーガルサポートセンター(PNLSC)と日本財団は2006年から、国籍回復事業を共同で行っている。これまでに父親の身元が判明したのは620人、うち95人の国籍回復が実現した。

 ただ、課題は山積している。PLNSCの猪俣典弘さん(43)は、「せめてあと10年早ければ」と、身元判明の難しさを指摘する。時が経つにつれ記憶が薄れ、情報が曖昧になり、父親のことを知る証言者も亡くなるなどで、国籍回復を望む2世の状況は年々、厳しくなっている。

 7月19日に沖縄に降り立った知念ノルマさん(71)は祖国の地を踏み、「父の身元が分かったときは50%の喜びだったが、いまは100%の喜び」と涙を流した。ノルマさんは 1980年頃から父親の消息を探し、2005年に父親の身元が判明した。当時は半信半疑だったが、今回、沖縄にいる親族との対面が実現し、初めて日本人であることを実感できたという。

 父の故郷である津堅島に渡り、父の弟と妹、ノルマさんにとっては叔父さん叔母さんと話し、父親をより身近に感じることができた。ただ、ノルマさんのように親族と対面できるケースは少ない。

 進む高齢化、国の措置を!

 国籍が認められるのは本人が生きていることが条件となる。戦後68年が経過し、2世の高齢化が進んでいる。平均年齢は74.2歳で、最高齢は88歳だ。救済対象者はいまだに190人も残されている。短い時間のなかで民間にできることには限りがある。だからこそ、フィリピン残留日本人2世と同じような境遇にあった中国残留孤児で取られたような国家による救済措置が必要だ。

 3人妹弟のカトウ・イニアさんは、全員の国籍回復を夢みていた。しかし、この数年の間に、2人は亡くなったという。今回の来日は、夢半ばで世を去った妹弟の思いを背負った帰国となった。過去のことを語るたびに感傷的になり、涙があふれ出す。その姿に、関係者は一人でも多くの2世の国籍回復を果たそうと、誓いを新たにした。(日本財団・国際協力グループ 松岡直/SANKEI EXPRESS

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