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【軍事情勢】ソ連に転んだ「手先」たちの報酬と末路

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【軍事情勢】ソ連に転んだ「手先」たちの報酬と末路

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 前回に続き、18年前に入手した600頁にのぼる捜査資料と取材ノートを基に、ラストボロフ事件の関係者に焦点を当てる。捜査資料は、産経新聞の大型企画・戦後史開封で、戦後のスパイ事件を担当する際入手した。【疑惑の人物は仮名/年齢は平成7=1995年末当時/年齢なしは接触できず、捜査資料に拠った人物/敬称略】

 機中での謎の死

 事件は、在日ソ連代表部の二等書記官を装うMVD(内務省)諜報員ユーリー・ラストボロフ中佐(1921年生)が、米軍諜報機関の手引きで昭和29(1954)年、米国に亡命。日本での衝撃的諜報活動を暴露し発覚に至る。斯くして、県教育長や新聞社幹部ら、ソ連の《手先》となった36人について、公安当局による裏付け捜査が始まる。

 MVDはシベリア抑留中に日本人を間諜に仕立て上げることが多かった。建築家・森幹雄(84)も引き揚げ後、サンフランシスコ講和条約や在日米軍施設の情報を求められた。森は「不愉快な経歴。長生きするだろうから、思い出して健康を損ねたくない。世界中回ったが行けば捕まると思い、ロシアだけには行ったことがない」と語った。建築家として名を成した森は、36人の中では“幸せ”な部類に属する。悲惨な末路を迎えた《手先》は少なくない。

 29年2月3日夜、節分の豆まきを終えた外務省職員・室井正三(故人)は窓を閉める際、電柱の陰から口笛を吹く人影を見た。妻(65)に「タバコを買う」と言って出た。後ろから肩をたたかれ振り向くと、中国系の男が「自殺しろ」と、低い露語でつぶやき走り去った。ラストボロフの運転手だった。2日前、代表部は「ラストボロフは、在日米諜報機関に拉致された(実は亡命)」と発表。とっさに、口封じのため「消される」と感じた。妻は回想する。

 「翌日の夜10時、真っ青な顔の主人に打ち明けられ愕然とした。バッグに下着や通帳を詰め、アパートの住人に悟られぬよう素足で階段を下り、上野駅近くの旅館に隠れた。4回目の結婚記念日だったが一晩中、逃げるか自首するかを話し合った。結局、翌日に自首した」

 20年近く経った昭和48年、室井はモスクワ行き機内で謎の死を遂げる。当時、自民党親ソ派の大物代議士らの推しで、ソ連の石油開発を手掛ける会社の常務になっていた。乗り合わせた新婚旅行中の医師(55)=取材時は大学教授=が駆けつけると「脈がなく、呼吸が止まり、瞳孔が開いていた」。

 「東京都監察医務院の判定ではクモ膜下出血や脳室内出血の症状。皮膚が紫がかるチアノーゼが見られ、嘔吐による窒息や超劇症型の可能性はゼロではないが、一般的には死の兆候が早過ぎる。死ぬ1時間前『薬を飲み違えた』と周りに話しており、すっきりしない一件だった」

 何かに脅えて自殺

 一時は身辺警護までした公安当局は放免後も監視を続け、捜査資料は室井が38年以降、ソ連と誼を再開した証拠を列記している。室井を登場させた小欄の執筆は、毒殺された露連邦保安局(FSB)中佐の死因審問報道(7月12日)に触発されたためでもある。

 中佐は、FSBの前身KGB(ソ連国家保安委員会)出身者らが牛耳る露政権の暗部を暴露し「裏切り者」となり、英国に亡命した。英公安当局は、KGB元諜報員が犯人と断定しており、危険物による暗殺は、露諜報機関のお家芸なのだ。

 話を戻す。MVDの諜報活動を阻止せんと暗躍したのがGHQ(連合国軍総司令部)諜報組織のキャノン機関やCICだった。もっとも、代表部の諜報組織もMVDだけではない。

 GRU(露軍参謀本部諜報総局)が操った間諜に元大日本帝國陸軍大佐・佐田克彦がいる。佐田は25年「釣りに行く」と出たきり行方不明になる。妻(80)によると「2日後に帰ると、眉毛の上にケガをしていて『崖から落ちた』と言う。以来何かに脅え、暗くなると雨戸を閉めていた」。3カ月後、佐田は自宅で首を吊る。

 佐田が手に入れたGHQ情報を、日本人共犯者が無線でソ連で打電していた。キャノン機関次席の延禎(70)は「駐ソ武官を務めたソ連通で、二重スパイに寝返らせようと接触していた」と証言した。

 外務省職員・羽毛田実も逮捕前、自殺を図った=未遂。MVDより2年半で58万円を支給された羽毛田だったが、以下の事情で、さらに増額される。

 《講和条約発効で代表部が閉鎖した場合、指令はラジオで行う。報告は暗号に組んで埋め、技師がソ連へ送信する》

 《文書をマイクロフィルムに撮影し切手の裏に貼って郵送》

 任務が増え、閉鎖後の活動資金として4000ドル=当時のレートで160万円。ラジオや接写装置の購入、仕事場確保に向けた自宅増築で20万円。総計238万円を受けた。逮捕半年後に離婚した元妻(87)によると取材当時、羽毛田は既に脳溢血で11年以上も入院していた。

 報酬でアパート購入

 ところで、36人の報酬は1回の接触で2000円~10万円と開きがある。

 元陸軍主計少将・並木六朗は、米諜報機関に近い右翼活動家・児玉誉士夫元被告や吉田茂首相の軍事顧問・辰巳栄一元陸軍中将の身辺情報はじめ、《細菌戦に関する石井四郎(陸軍軍医中将)構想》《元日本軍人が朝鮮戦線(戦争)で活躍していることの真偽》の調査を求められ、3年半で113万円を得た。要求型だったようだ。

 68万5000円をもらった室井の、外務省での手取りは月1万5000円。外務省職員・庄田正(故人)の長男(55)が住む17.25坪の木造平屋(東京都目黒区)が22万6500円(29年度評価)だった時代である。

 この家を報酬で建てたか否かは公判での争点の一つとなったが、300万円を供された米軍施設工事請負会社幹部・大田吉蔵は、その内の140万円で12坪の別荘を建て、120坪のアパートを購入している。

 京都に引き揚げ船で着いた元陸軍中佐・是枝重信(83)は5日後、都内の墓場で2時間かけて埋没場所を探し、密封缶入りの支度金5万円をつかんだ。

 4年の抑留から祖国に生還した大本営陸軍部対ソ作戦主任参謀だったエリートが、食うや食わずで待っている妻と小学生の息子2人のため墓場をあばく姿を想像するのは、悲しかった。(政治部専門委員 野口裕之)

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