近代海軍史のレアもの 敵前逃亡艦を展示する中国の度胸

野口裕之の軍事情勢

 大東亜戦争(1941~45年)で米軍の猛攻を受け、フィリピン沖に沈んだ軍艦武蔵を米資産家が発見したが、艦名の武蔵で、清国海軍・北洋艦隊の軍艦が唐突に頭に浮かんだ。驚くべき船脚の速さを誇り?大日本帝國海軍の猛追を2回もかわしたが、1回目は白旗を掲げ降伏を装って、2回目は敵前逃亡だった。しかも、最後は帝國海軍に鹵獲(ろかく)され、日本のために戦った。そんな不名誉の塊の一部が、中国で博物館展示されている。もっとも「恥史」を人民に披露するのは、正直だからでも、度量が大きいからでもない。人民に日本を警戒させ、戦意を高揚する狙いがある。いささか、説明の必要がある。

 清国海軍の巡洋艦「済遠」

 時は明治二十七八年戦役(日清戦争/1894~95年)緒戦。帝國海軍は朝鮮半島西岸で会合予定の、武蔵含む2隻を探していた。今回発見の戦艦に属する武蔵ではない。汽帆兼用で航海する、鉄骨木皮製のスループという艦種だった。実は、武蔵という名の帝國海軍艦船は3隻。スループ以前にも、米国より買った汽帆兼用のスクーナーなる艦種に武蔵が存在した。

 話をスループの武蔵に戻す。2筋の煙を発見した帝國海軍は、スループの武蔵など2隻の可能性もあるとして接近した。と、ここで今次小欄の主役となる清国海軍・ドイツ製防護巡洋艦《済遠》の登場と相成る。防護巡洋艦とは、舷側に装甲がなく、機関室上部など一部に装甲を施した軽防御の巡洋艦だ。

 済遠の21センチ連装砲が突如、火を噴く(異説アリ)。豊島(ほうとう)沖海戦である。帝國海軍は応戦し、濃霧にもかかわらず、早くも数分後には済遠艦橋に命中し副長が戦死する。済遠はマストにひるがえる清国旗を降ろし、日本軍艦旗の上に白旗を掲げ“降伏”した。ところが済遠は、機関停止で恭順の意を表すことを定めた国際法を無視し、白旗+日本軍艦旗の揚げ下げを繰り返しながら逃走。その間も攻撃してきた。ただ、艦搭載の端艇を派遣し、船体確保を怠った瑕疵は日本側にもあった。結局、世界屈指の速度を誇る帝國海軍の防護巡洋艦を振り切り、僚艦を見捨てて逃げおおす。

 しかし、2カ月もたたぬ内に黄海(海戦)で会敵。戦況不利と観た済遠など2艦は戦闘にロクに貢献せぬまま敵前逃亡し、母港の一つ旅順に遁走する。制海権喪失で日本軍の補給路遮断が困難になる戦局を恐れ、艦隊温存を図ったとの分析も有るが、近代海戦史において敵前逃亡は極めて珍しい。艦長は斬首(銃殺説アリ)に処される。

 「恥史」を公開する博物館

 軍艦武蔵発見で思い出した、済遠にまつわる話がもう一つ。前述したが、“降伏後”に火を噴いた21センチ砲などが、別の北洋艦隊母港・威海市(旧威海衛)沖・劉公島の甲午(日清)戦争博物館に展示されている。

 帝國海軍はほぼ無傷で鹵獲した済遠を明治三十七八年戦役(日露戦争/1904~05年)に投入したが、旅順攻囲戦で二〇三高地を攻撃中の帝國陸軍を支援中、触雷し沈没した。1980年代に、大砲などを発見→引揚げられて博物館入りした。

 中国の軍事博物館や抗日記念館には、インターネット上で訪れるだけで驚かされる。共産党軍は帝國陸海軍との主要戦闘を避け逃げ回っており、北京・盧溝橋の人民抗日戦争記念館や南京大虐殺記念館によくあれだけの“戦利品”を飾れるものだと、創作意欲には感心してしまう。この点、甲午戦争博物館は歴史を粉飾・捏造してまでメンツを重んじる中国にしては、史実に則した異色の博物館。敵前逃亡を犯した揚げ句に鹵獲→帝國海軍の艦籍となる「恥史」を公開している点だけではない。

 中国にとり、博物館所在の威海市・劉公島は海軍揺籃の要衝だったが、引きこもった北洋艦隊の最新鋭主力艦を含む残存艦艇を壊滅させられ、渤海・黄海の制海権を失った戦跡。協同した帝國陸海軍の死者29名に対し、清国側は4000名を数える大惨敗を喫した。珍しくもないが、敗色濃厚と知るや、清国海軍水兵は反乱も起こす。不名誉で不吉な場所を、気味が悪いほどオープンにする姿勢に、中国の王毅外相(61)が8日、日本に向け発信した能書きが蘇った。

 「歴史を顧みぬ態度は人類の平和と正義に危害を及ぼす」

 真意は軍国主義教育

 存在するだけで「人類の平和と正義に危害を及ぼす」中国には言われたくないが「歴史を顧み」の部分は自らにも言い聞かせているのかと…。そんな折、甲午戦争博物館に足を運んでいない小欄に、旧知の安全保障関係者が教えてくれた。気味の悪さの解は博物館に飾られた鐘に有った。鐘にはこんな趣旨の文言が刻まれてある、という。

 《歴史を心に刻み 警鐘を鳴らし 海防を強化し 海洋権益を確立す》

 汚職蔓延や貧富拡大といった人民の不満を外にそらすべく、屈辱の戦史をあえて明らかにし、日本に警戒感を抱かせ、戦意高揚を謀り、巨費を投じての軍拡の正当性を印象付ける軍国主義教育だったのだ。

 アジア1位/世界4位の清国海軍が、格が下の帝國海軍に負けた背景について、共産党中央軍事委員会機関紙・解放軍報も盛んに報じる。いわく《将兵の資質/軍紀弛緩/訓練の無統制/汚職蔓延/闘志の欠如》とか。《歴史を鑑とし、屈辱と失敗に向き合う》ともうたうが、《鑑》は薄汚く曇っているのが常態で《将兵の資質/軍紀弛緩/訓練の無統制/汚職蔓延/闘志の欠如》はもはや、人民解放軍の文化と形容してよい。

 沈没した大和型戦艦二番艦・武蔵の発見で一番艦・大和の優しさにも思いが至る。1983年の《歴史と人物》に載った関係者証言によれば、大和は▽女性用美顔クリーム25万人分▽生理用品15万人分▽歯磨き粉・歯ブラシ50万人分を積んでいた。物資欠乏の中、沖縄県民向けに調達した真心だった。それを沖縄の地元紙はかつて、大和が沈まず沖縄に到着していたのなら、沖縄に上陸した米軍への艦砲射撃で、犠牲者は県民人口の半分に達していたと推測。こう報じた。

 《あっ、よかった。大和が、沖縄のはるか北方の海に沈められてよかった》

 大和と運命を共にした3056名の乗員は、同胞(はらから)による「反日無罪」を海の底で泣いている。済遠の敵前逃亡は軍紀を逸脱したが、沖縄紙の報道は人間性を逸脱した。(政治部専門委員 野口裕之/SANKEI EXPRESS